空中戦に強く、守備的なポジションならどこでもハイレベルで対応できる高田昌明。
バルセロナ五輪予選を戦う日本代表に、史上初となる高校生で選出され、アジア最終予選に招集された経歴を持つ。
Jリーグ開幕後は、横浜フリューゲルスの戦術であるゾーンプレスの中心選手として守備をまとめた。
高田昌明のJリーグ入り前
袖ヶ浦西小学校入学後にサッカーを始め、習志野市立第三中学校に進学。
サッカー部で活躍し、関東選抜に選出された。
この活躍を受け、名門の市立船橋高校へ進学。同学年に和田潤(FC東京)、1学年上に脇田寧人(ペナルティ)、1学年下に鬼木達(鹿島アントラーズ)がいる。
高田は恵まれた身体能力を生かし、1年次から出場の機会を得る。
2年次には背番号4を背負い、ストッパーとして選手権に出場。
1回戦で高松商業を2-0で下し、順調なスタートを切ったが2回戦で名波浩、山田隆裕、大岩剛、大石尚哉がいる清商とあたり、PK戦の末に敗れている。
3年次には守備的MFとしてプレー。市船は選手権で優勝候補の一角として期待されるも、準決勝で帝京に敗れベスト4となった。
尚、この年は高校総体でもベスト4に入った。高田は千葉県選抜に選出され、国体に出場し準優勝を飾っている。
この活躍を受け、高田はバルセロナ五輪予選日本代表に選出された。大学生やJSLの選手で構成された日本代表にただ一人高校生が選出されたことで脚光を浴びた。
日本代表はオリンピック出場を目指し、初戦でバーレーンに大勝するも、その後は3連敗を喫するなどして6チーム中5位に沈み、本大会出場を逃した。
高田は高校卒業後、法政大学進学が決まっていたが、急遽、プロ入りを決意。
横浜フリューゲルスへ入団した。
高田昌明のJリーグ入り後
1992年に横浜フリューゲルスに入団した高田は、加茂周監督の元で早々に出場機会を得る。Jリーグ開幕前年に開催されたカップ戦は全試合フル出場を果たした。
1993年、Jリーグ開幕戦の清水エスパルス戦でボランチとして先発出場。加茂監督の戦術であるゾーンプレスの中心人物として活躍した。
第3節浦和レッズ戦ではJリーグ初ゴールをマーク。この年の天皇杯でも活躍し、優勝に貢献している。
1994年もボランチやセンターバックとしてプレー。変動番号制のため、「8」や「6」を背負うことが多かった高田だが、最終節の清水エスパルス戦では「11」を背負ってプレーした。
1995年はサントリーシリーズは控えに回ることが多かったが、NICOSシリーズはレギュラーとして活躍しリーグ戦17試合に出場。
しかし1996年にはサンパイオ、三浦淳宏が活躍したことを受け出場機会が激減し、リーグ戦1試合の出場に留まるとこの年限りでフリューゲルスを退団。
1997年はヴィッセル神戸へ移籍。バクスター監督のもとで再起を図るも出場機会はなく1年で退団となった。
1998年はフリューゲルスのOBを中心に結成された横浜FCの前身である東京フリエサッカークラブでプレー。
1999年からはJFLに承認された横浜FCでプレー。この年から2年連続でJFLベストイレブンに選出される活躍を見せ、有馬賢二、眞中幹夫らとともに活躍し、横浜FCのJ2昇格に貢献した。
2002年からは吉田暢監督が率いるJFLのソニー仙台でプレー。
ベテランとして若いチームを支え、DFやボランチとして活躍した。
2006年には東海リーグの静岡FCへ移籍し、選手兼監督としてプレーし、この年限りで引退した。
高田昌明の引退後と現在
高田は引退後指導者に転身。
静岡FCの監督や、静岡に拠点を置くクラブチーム「Vivace FC」のコーチ、YSCC横浜のコーチ、FC琉球のアカデミーダイレクターなどを務めた。
2021年からは産業能率大学サッカー部のコーチを務めている。
バルセロナ五輪予選では唯一の高校生として注目を集めた高田。
4年後のアトランタ五輪予選では、バルセロナでの経験を評価されて、チーム立ち上げ当初は背番号7を背負いキャプテンをつとめていたが、不運にも規定の改正により本選出場はならなかった。
高校生で五輪最終予選に招集された選手は、高田昌明とアトランタ五輪のFW柳沢敦(富山第一→鹿島アントラーズ)、アテネ五輪のFW平山相太(国見→筑波大学中退→ヘラクレス)の3人だけだ。
早熟の天才として高田の名を挙げるオールドファンも多いだろう。