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鈴木健仁の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第240回】

スピードに乗ったオーバーラップとハードマークが特徴の右サイドバック、鈴木健仁。

横浜Fマリノスの背番号3といえば松田直樹の番号として知られるが、マリノスの初代背番号3は鈴木健仁である。その後、高卒ルーキーで加入した松田と右サイドバックのレギュラー争いを繰り広げた。

マリノスを離れた後は京都パープルサンガ、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、ベガルタ仙台とチームを渡り歩き、サイドバックだけでなくセンターバックとしてもプレー。

鈴木健仁のユーティリティ性は多くのチームで必要とされた。

鈴木健仁のJリーグ入り前


鈴木健仁は1971年に東京都町田市に生まれた。

小学校から町田SSSに所属して本格的にサッカーを始めた。

中学卒業後は日本大学藤沢高等学校へ入学。鈴木の一学年下に後に柏レイソルで活躍する有馬賢二がいた。

長谷部茂利林健太郎がいる桐蔭学園が神奈川県内で別格の存在であった為、全国高校サッカー選手権への出場は叶わなかったが全国高校総体(インターハイ)宮城県大会では神奈川県代表として出場し全国ベスト8の成績を収めた。

高校卒業後、鈴木は日産自動車サッカー部に入団しセカンドチーム『日産FCファーム』で経験を積む。

翌年にJリーグ開幕を控えた1992年、鈴木健仁はトップチームである横浜マリノスに昇格する。

鈴木健仁のJリーグ入り後

鈴木は1993年8月7日NICOSシリーズ第4節鹿島アントラーズ戦でJリーグデビューを飾る。この試合は1-1から延長戦でも決着がつかずPK戦となるがPK戦でも9人目のキッカーまでもつれる試合となり8-7の激戦の末にマリノスが勝利している。

この年はリーグ戦2試合のみの出場に留まるが、1994年は少しずつ出場機会を掴んでいく。6月8日サントリーシリーズ第20節ガンバ大阪戦ではJリーグ初ゴールをマークし3-2の勝利に貢献。この年はリーグ戦22試合に出場した。

1995年は松田直樹と右サイドバックのポジション争いを繰り広げながらも、徐々に出場試合を増やしいき、4バックの時は左から鈴木正治小村徳男井原正巳、鈴木健仁のラインが固定されていく。

3バックの時は井原、小村、松田がセンターバックに入り、ダブル鈴木(正治、健人)はサイドのMFに位置した。また対人プレーに強かった鈴木健仁はセンターバックとしても起用された。この年、DFラインが充実したマリノスは安定した守備を見せ年間優勝に輝いている。

1997年からは固定番号制となり、マリノスの初代3番を背負いリーグ戦22試合に出場するが、翌年の2ndステージから出場機会が減少。シーズン途中に京都パープルサンガへ移籍する。
京都では主に右サイドでプレー。

1999年は主力としてプレーし、手島和希、佐藤尽、大嶽直人らとDFラインを形成するもリーグワースト3位となる年間失点58と安定せず京都も年間順位12位に沈んだ。

2000年はガンバ大阪で1シーズンプレーし、2001年からはヴィッセル神戸へ移籍。

神戸ではサイドバックだけでなくセンターバックとしてもプレー。北本久仁衛、土屋征夫シジクレイ吉村光示とレギュラーを争いながらもセンターバックもサイドも出来る鈴木健仁はリーグ戦21試合に出場。

しかし2002年は出場機会に恵まれず、シーズン途中にベガルタ仙台へ移籍。加入年度はリーグ戦15試合に出場するも翌年は怪我もあり出場機会はなく、ベガルタ仙台も年間5勝しかあげられずJ2に降格。

鈴木健仁はこの年限りで現役を引退した。

鈴木健仁の引退後と現在

鈴木健仁は引退後、スカウトに転身し2004年からアルビレックス新潟のスカウトを11年間務めた。

2015年からはアビスパ福岡のチーム統括部長に就任している。

引退後、アルビレックス新潟での11年間のスカウト生活の中で数多くの名プレーヤーを入団させた鈴木健仁。

スカウトの経験を生かしアビスパ福岡の立て直しに貢献出来るか、注目したい。

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