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サンドロの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第498回】

ゴール前の壁となりクロスを跳ね返す圧倒的な高さと、正確な足元の技術をもったDFサンドロ。

1989年にサッカー留学生として来日。高校時代は2年連続で国体ベストイレブンに選出された。

ジェフ市原入団後は外国人枠の関係で出場機会は限られたが、その後に所属したFC東京や大分トリニータでは鉄壁の守備を見せ、J1昇格の立役者となった。

サンドロのJリーグ入り前


サンドロは1973年にブラジルサンパウロ州に生まれた。

幼少期にサッカーを始め、ブラジル全国選手権セリエAに所属するポルトゥゲーザの下部組織に入団。

その後15歳の時にブラジル人であり渋谷幕張高校サッカー部監督を務める宗像マルコス望からスカウトされ、サッカー留学生という形で来日を果たす。

来日後、渋谷幕張高校に入学。
同時期に入学した留学生にアンドレイ(サンフレッチェ広島)がいる。

高校時代は2年連続で千葉県選抜に選出され、国体に出場。
2年次は高田昌明(横浜フリューゲルス)、脇田寧人(ペナルティ)らとともに戦い、優勝を果たす。
3年次は静岡選抜に敗れたものの、準優勝を果たした。
サンドロは2大会連続で国体ベストイレブンに選出されている。

高校卒業後の1992年、ジェフ市原に入団する。

サンドロのJリーグ入り後


1992年、Jリーグ開幕前年に開催された第1回Jリーグカップでは主力として活躍。累積警告で出場停止になった第7節横浜フリューゲルス戦以外の全8試合に出場を果たした。
184センチの長身を生かしたセンターバックの中央としてジェフのDFラインを支えた。

1993、Jリーグが開幕。
日本語は堪能であったため、コミュニケーションの問題はなかったが3人しかいない外国人枠の関係で出場機会が減少。
ジェフは攻撃の起点として元ドイツ代表リトバルスキー、チェコ人MFフランタ、チェコ人FWパベルを起用。
NICOSシリーズからは元西ドイツ代表FWオッツェも加入したため同年はリーグ戦4試合の出場に留まった。

1994年もシーズン中盤まではリトバルスキーオッツェ、そして同年獲得したモンテネグロ人MFマスロバルの3人が起用されたためベンチ入りすらできない日々が続いた。
しかし9月に起用法を巡ってフロントと対立したリトバルスキーの代わりにチャンスを掴むと、NICOSシリーズ後半からはレギュラーに定着。
同年10月22日第14節ベルマーレ平塚戦ではJリーグ初ゴールを決め2-1での勝利に貢献した。

1995年のジェフ市原は、ハードマークに定評のあるセルビア人DFバシリエビッチ、ニュージーランド代表FWルーファーを獲得。
この2人と絶対的司令塔であるマスロバルが起用されたため、序盤はベンチ入りが出来なかったが、ボランチやセンターバックの出来るサンドロは次第に出場機会を得るようになる。
NICOSシリーズはセンターラインの要として不動のレギュラーとなり、終わってみればリーグ戦32試合の出場を果たした。

1996年は開幕のサンフレッチェ広島戦から起用される。
同年5月15日第14節横浜フリューゲルス戦ではヘディングで豪快にゴールを決め4-2での勝利に貢献。
シーズン終盤は出場機会を減らしたもののリーグ戦24試合に出場した。
主力として活躍したものの、この年をもって5年間在籍したジェフ市原を退団。

1997年はJFLの本田技研へ移籍。
バウテル、ジャッケス、ドウグラス、マルクスといった外国人が在籍していたがここでは別格の実力を見せ、シーズンを通してレギュラーとして活躍。
リーグ戦28試合に出場した。

1998年は当時JFLの東京ガスへ移籍。
大熊清監督のもとで高い守備能力が評価され、センターバックのレギュラーに定着。
リーグ戦30試合で17失点という圧倒的な守備力を誇った同チームの守備の要として君臨。
Jリーグ昇格を果たすとともに藤山竜仁、加賀見健介とともにこの年のJFLベストイレブンに選出された。

1999年も4バックの中央としてチームを支え、リーグ戦全試合に出場。J1昇格に大きく貢献した。

2000年は自身3シーズン振りのJ1での戦いとなった。
不動の2トップであるアマラオ、ツゥットとともにシーズンを通して起用されリーグ戦29試合に出場。
2001年もその地位は揺るがず、最終節の東京ヴェルディ戦以外全試合に出場を果たした。

2002年はJ2大分トリニータへ移籍。
最終ラインの砦として堅守速攻の中心人物として活躍。
計算できる外国人選手として期待を裏切らない活躍を続け、大分は序盤から首位を独走。サンドロの活躍もあり、大分はJ2優勝とJ1昇格を果たした。

2003年もセンターバックとして、三木隆司とともにDFラインを支える。
チームは得点力不足の影響で14位に沈むも、上位チームに引けを取らないリーグ戦37失点という成績に貢献。(優勝した横浜Fマリノスは33失点)

2004年もリーグ戦25試合に出場する活躍を見せたが、チームは浮上できず13位に終わる。
この年をもってサンドロは大分を退団した。

2005年はブラジルへ帰国し、セリエCに所属するABC FCへ在籍。
2006年はポーランドへ渡り、ポーランド1部リーグのMKSポゴニ・シュチェチンへ移籍。
第2節ザグウェンビェ・ルビンシーズンでデビュー。序盤は出場機会を得るも、4試合に出場後は出場機会はなく退団。
同年後半はブラジルに帰国しセリエBのセアラーSCでプレーし、現役を引退した。

サンドロの引退後と現在

サンドロは現役引退後、ブラジルで指導者に転身。

ボタフォゴFCやクリシューマ、ゴイアス、アトレチコ・ゴイアニエンセ、パラナ・クラブなどでコーチを務めた。

2017年にはFC東京でともにプレーした呂比須ワグナーが監督を務めたアルビレックス新潟でコーチを務めたが、同年をもって契約満了。

その後はブラジルに帰国し指導者として活動するとともに、日本サッカー協会との関係は続いており、講師として指導者セミナーで講演を行うなど活躍している。

サンドロがサッカー留学生として来日したのは1989年。
その後に同じ道を辿って渋谷幕張高校に入学し、Jリーガーとして活躍した選手はレイナルド(湘南ベルマーレ)、マルセロ(横浜フリューゲルス)、アンドレ(大分トリニータ)、田中マルクス闘莉王(サンフレッチェ広島)、ジョズエ(サガン鳥栖)、ブルーノ(水戸ホーリーホック)、フラビオ・ペレイラ(FC岐阜)、ラファエル(FC岐阜)らがいるが、Jリーグで活躍した選手はサンドロと田中マルクス闘莉王のみである。

Jリーグ開幕当初はビッグネームの外国人の影に隠れてしまったことや、外国人枠の関係で出場機会が限られたことで過小評価された選手であるサンドロ。

FC東京ではJ2昇格とJ1昇格の影の立役者といってもいい程、チームに貢献。大分トリニータでも堅守の中心としてJ1昇格を果たした。
いずれの昇格もサンドロの存在抜きでは語ることは出来ないだろう。

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