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小澤英明の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第87回】

2010年2月。長年、鹿島アントラーズのセカンドGKとしてチームを支えてきた小澤英明が、鹿島からの契約延長のオファーを固辞してパラグアイリーグ1部の強豪であるルケーニョに移籍することが決まった。

35歳という年齢で、南米の地へ挑戦することになった小澤英明はJリーグという言わば安泰の地を飛び出して、治安も良いとは言えないパラグアイを選んだ。

小澤英明は移籍に対してこのような言葉を残している。

「夢を夢で終わらせたくない。まだ10年やる自信もあるし、代表もあきらめていない」

南米挑戦までの、18年間プレーしたJリーグではそのほとんどをセカンドゴールキーパーとして過ごした小澤英明。

いつ出番が訪れるか分からない張り詰めた緊張感の中で、小澤英明はチームを鼓舞し、戦い続けた。

スタンドまで聞こえるくらいの大きな声でのコーチング、キックの正確さ、ハイボールの強さなど安定した能力を兼ね揃えており、かつては川口能活とアトランタオリンピック日本代表の正GK争いをした小澤英明は、ベンチに置いておくのはもったいない選手であるのは間違いない。

しかし海外挑戦をするには年齢的に遅いのではないか、小澤を知る人は誰もが不安を感じたに違いない。

だが、夢を終わらせたくないと日本を飛び出した男は大方の予想に反して、南米の地で成功と確かな手応えを掴むことになる。

小澤英明のプロ入り前


小澤は1974年に茨城県行方市に生まれた。

6歳の時に北浦村立津澄小学校でサッカーを始める。サッカーを始めたきっかけはTV放送でやっていたキャプテン翼だった。

作中のキャラクターであるGKの若林源三に憧れた小澤はすぐに先生にGKをやりたいと懇願して、若林のトレードマークであるアディダスの帽子を買いに、スポーツショップに走ったという。

GKとして順調に成長していった小澤は北浦中学校2年生の時に全国中学校体育大会に出場を経験。

高校は水戸短期大学附属高校を選択。当時の茨城県には日立工業や水戸商業というサッカーの強豪がいた為、全国高校サッカー選手権には出場できなかった。

高校卒業後の1992年、Jリーグ開幕を見据えて地元に新設された鹿島アントラーズに入団。この入団は鹿島の新卒プロ契約第1号となった。

小澤英明のプロ入り後

鹿島アントラーズに入団した小澤だったが、チームには古川昌明、千葉修という経験豊かなゴールキーパーがいた為、なかなかベンチ入りの機会も与えられなかった。

しかしU18やU19日本代表にも選出されていた小澤の実力は高く評価されており、1994年11月の横浜フリューゲルス戦でデビューを果たす。

これは当時のJリーグ史上最年少でのデビュー記録だった。

その年、鹿島ではリーグ戦3試合の出場に留まったもののアトランタオリンピック出場を目指す日本代表に選出。

監督の西野朗からは当初背番号1を与えられ、期待されていたが持病である椎間板ヘルニアの影響もあり本選出場は叶わなかった。

アトランタオリンピック日本代表には川口能活と下田崇が選出された。

その後、小澤は鹿島では出番に恵まれず、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、セレッソ大阪、FC東京と移籍を繰り返すがマリノスには川口能活、セレッソには下川誠吾、東京には土肥洋一という正GKがおり、その牙城を崩すことは出来なかった。

2004年に鹿島アントラーズに復帰するも、鹿島には日本代表GKである曽ヶ端準がおり、小澤はセカンドゴールキーパーとしてチームを支えた。

2006年に曽ヶ端の負傷の際にはリーグ戦12試合に出場。曽ヶ端の復帰後は再び控えに回ったが、いつ出番が来ても良いように日々備え、ベンチ入りを続けた。

2009年10月17日に行われたJ1第29節磐田戦で立石智紀の記録を抜くベンチ登録252試合のJリーグ最多記録を樹立。

小澤のセカンドGKとしての評価は「練習に手を抜かないから、チームに緊張感を与える。縁の下の力持ち」と関係者が絶賛するほどだった。

小澤復帰後の鹿島はいくつものタイトルを獲得し、リーグ3連覇を記録した。

しかし「Jリーグ最高のセカンドゴールキーパー」としての評価は小澤にとって納得のいくものではなかった。

2010年オフシーズン。小澤は鹿島アントラーズからの契約延長を固辞。子供の頃からの夢であった海外移籍を模索する。

小澤が選んだ次なるステージは南米のパラグアイだった。

35歳での初の海外挑戦だった。

小澤英明のパラグアイでの活躍とJリーグ復帰

小澤は2010年2月よりパラグアイのリーガ・パラグアージャに所属するスポルティボ・ルケーニョに加入。

しかし、南米パラグアイの地は想像を絶するものだった。

『賄賂(わいろ)でも送らなければポジションは取れない』と言われるような環境、小澤はボロボロの練習着を渡されグラウンドの隅で汗を流す日々を送った。

練習後に監督から「俺のシュートを受けろ」と命じられ、2軍の試合出場すら許されなかった小澤は「少しでもアピールを」と気丈にもダイブを繰り返したが、それは見せしめだった。

「見てみろ、日本人はこんなシュートも取れねぇぞ」

小澤は仲間たちの面前で、激しく罵倒されたという。(単行本『アンチ・ドロップアウト』、『フットボール・ラブ』参照)

日本人蔑視と環境の変化に戸惑った小澤だったが、風向きが変わったのは後期リーグが開幕した頃だ。

小澤を罵倒した監督がリーグ開幕後わずか3試合で成績不振を理由に呆気なく解雇され、新たに就任したカルロス・ハラ監督とハシント・ロドリゲスGKコーチからは偏見無く能力を評価された。

10月24日のナシオナル戦で初のトップ招集を受け、この試合で出場機会はなかったものの、11月1日のリザーブリーグ、ルビオ・ニュ戦でマンオブザマッチに選出。

11月12日のオリンピア・アスンシオン戦でトップチームのリーグ戦初出場を果たした。

3度の南米王者に輝いたことのあるオリンピア相手に小澤は奮闘。

1-1のドローに貢献し、パラグアイの有力紙「ウルティマオーラ」は、小澤に出場選手中最高の7点を付け、マンオブザマッチに選出した。

その後もルケーニョの正GKとして地位を確立し、最下位に沈んでいたチームは最後の4試合を1勝3分けの無敗で切り抜け、1部残留に貢献した。

トップチームの勝利給は約2万円。J1時代の10分の1以下だったという。

シーズン終了後、小澤はルケーニョから契約更新のオファーを受け、パラグアイの有力チームからも誘われたが帰国。その後、アルビレックス新潟からオファーを受ける。

2011年に4月、小澤はアルビレックス新潟への加入を決める。

アルビレックスの監督が鹿島アントラーズ時代の戦友である黒崎久志だったこと、小澤の実家が東日本大震災で被災していたことが決め手となった。

アルビレックスには日本代表GK東口順昭がおり、小澤はセカンドゴールキーパーの役割を期待されての加入だったが、6月30日に行われたJ1第16節仙台戦終了間際、東口順昭が負傷。

小澤は代わって途中出場し、4年ぶりのリーグ戦出場を果たした。

最終的にはキャリア最多となる公式戦20試合に出場した。プロ20年目、37歳にして自己記録を大きく塗り替えた。

新潟には翌2012シーズンも在籍したが、東口の復帰もあり3試合の出場に留まりこの年限りでチームを離れた。

小澤英明の現在

小澤はその後2013年には所属チームがない中、公園などで1人で練習を続けJリーグ合同トライアウトに参加するなどプロとして活躍できる場所を模索したが獲得するチームは現れなかった。

小澤は2014年、千葉県成田市にサッカースクール「Arqueros」を開校。

Jリーグやパラグアイでの経験を元に少年たちへの育成を行なっている。

小澤はアルビレックス新潟を退団して、所属チームが決まらなかった2013年に自身の覚悟についてこう話している。

「大袈裟かもしれませんが、自分がゴールキーパーとしてゴールマウスを守るときは、例えば嵐が巻き起こり、根こそぎすべてを吹き飛ばしたとしても、僕はそこにとどまりたい。粉々になっても匂いだけは残る、そんな風に生きたいんです。」(小宮良之著 アンチドロップアウトより)

日本では練習後、普通にシャワーを浴びれるが、パラグアイはシャワーが5つあれば3つはお湯が出ない。ほかにも、牛の糞だらけのところで小澤は練習を重ねた。

Jリーグで20年に及ぶ戦いを重ね、パラグアイの劣悪な地で夢を叶えた小澤英明。

もう誰も彼を最高の「セカンド」ゴールキーパーとは呼ばない。

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