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永井篤志の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第432回】

繊細なボールタッチと独特なリズムのドリブルで、高校サッカー界屈指の天才ドリブラーとして名を馳せた永井篤志。

大学を中退し、JFLの福岡に入団すると新人王のタイトルを獲得しベスト11に選出され、将来を嘱望された。

しかしJリーグ1年目に右ひざじん帯を断裂する大怪我に見舞われ、その後は出場機会を失い、一時は所属クラブが見つからない状態に陥った。

しかしそこから見事に復活を果たし、モンテディオ山形、ベガルタ仙台では攻撃を組み立てられるボランチとして活躍。

天国と地獄を経験した男は後に「チームの心臓」と呼ばれる選手となった。

永井篤志のJリーグ入り前


永井は1974年に鹿児島県に生まれた。

幼少期に大分県に転居し、4つ上の兄・秀樹(ヴェルディ川崎)の影響でサッカーを始める。

大分市立明野西小学校入学後、 明野西JFCに入団してサッカーを学んだ。

小学校卒業後は、兄・秀樹の世代で全国優勝した実績のある大分市立明野中学校に進学し吉武博文監督の元でサッカー部で活躍した。

中学校卒業後、国見高校へ進学。
同学年に三浦淳寛(横浜フリューゲルス)、1学年上に路木龍次(サンフレッチェ広島)、塚本秀樹(アビスパ福岡)、1学年下に中島豪(浦和レッズ)がいた。

永井は高校1年次から背番号7を背負い、中盤の攻撃的選手として活躍。
選手権では決勝で同じ九州の鹿児島実業を延長戦の末に下し、優勝した。
インターハイではベスト8入り、全日本ユースではベスト4に進出している。

高校2年次には背番号10の三浦淳寛とともに司令塔として活躍。
選手権では四日市中央工業に準決勝で敗れたが、全日本ユースでは準優勝を飾り、インターハイでは前年同様ベスト8入りとなった。

高校3年次には高校サッカー界屈指のドリブラーとして注目を集めた。
選手権では準決勝で武南を相手に貴重なゴールを決め決勝に進出。決勝戦では山城高校を下して優勝を果たした。
インターハイでは市立船橋に接戦の末に敗れて準優勝となった。

高校卒業後、駒沢大学へ進学。
同学年に山田卓也(東京ヴェルディ)、1学年下に三上和良(ヴィッセル神戸)、斉藤雅人(大宮アルディージャ)がいた。

大学でも中心選手として活躍するが、Jリーグ入りを目指していたJFLの福岡ブルックス(アビスパ福岡)からオファーを受け、大学を中退して入団する。

永井篤志のJリーグ入り後

1995年、福岡ブルックスに入団した永井は、シーズンを通してレギュラーとして活躍。
リーグ戦29試合に出場し7ゴールを決め、JFL新人王を獲得。このシーズンのベスト11に選出された。
福岡は24勝6敗という成績で優勝し、2位の京都パープルサンガとともにJリーグ昇格を果たした。
また、この年にヴェルディ川崎から兄・秀樹がレンタル加入し、兄弟でのプレーも実現している。

1996年、前年度の大活躍により日本代表入りも期待されるようになった。
開幕戦のジュビロ磐田戦から先発出場を果たし、第6節鹿島アントラーズ戦ではJリーグ初ゴールをマーク。
上野優作マラドーナ其田秀太中田一三篠田善之らとともに中盤を支えるが、第10節京都パープルサンガ戦で右ひざじん帯断裂の重傷を負い、戦線を離脱することになった。
チームもJの洗礼を受け、リーグ戦16チーム中15位に沈んだ。

1997年は故障から復活し、開幕戦の横浜フリューゲルス戦から出場を続ける。
しかしシーズン終盤は右ひざの怪我の影響でベンチ入りメンバーから外れるようになった。

1998年も右ひざの状態は思わしくなくリーグ戦の出場は無かった。同年10月に出場機会を求めてサンフレッチェ広島へレンタル移籍をするが、ベンチ入りメンバーにも選ばれることなく退団した。

その後、しばらく所属先が見つからず、母校である国見高校で練習を積みながら所属先を探すことになった。

2000年シーズン途中にモンテディオ山形へ入団。
途中加入ながら、卓越したボールコントロールでレギュラーを獲得し、ボランチとしてプレーした。

2001年からは背番号8を背負う。

2003年6月14日第17節水戸ホーリーホック戦では山形のJリーグ通算200ゴールとなる記念ゴールを決めた。

2007年にはJ2ベガルタ仙台へ移籍。
32歳での移籍ですでにベテランの域に達していたが、シーズンを通してレギュラーとして活躍した。

2008年に手倉森誠監督が就任しても地位は揺るがず、コンスタントに出場を続けた。

2009年にはリーグ戦40試合に出場し、仙台のJ2優勝&J1昇格に貢献。この年の仙台はホーム23戦無敗というJ2新記録を打ち立てるなど、躍進した。

2010年、永井にとって約9年ぶりとなるJ1の舞台となった。
年齢は35歳となりチーム最年長となったこの年は、先発出場の機会は少なかった。後半途中からの出場が多くリーグ戦10試合に出場したが、この年を持って仙台を退団。

2011年はJFLのFC琉球へ入団。
福岡時代以来となる兄・秀樹との共闘だったがこのシーズンを持って現役を引退した。

永井篤志の引退後と現在

永井は引退後、モンテディオ山形やヴィッセル神戸の下部組織で指導者として活躍。

2022年からはベガルタ仙台ジュニアの監督に就任している。

高校時代、超高校級と騒がれながら、Jリーグ1年目に選手生命を絶たれるような大怪我を負った永井篤志。

ドリブラーとしてではなく、広い視野を持ったボランチとしてJリーグに帰ってきた永井は、後にチームに不可欠な戦力となり、「心臓」とまで言われる選手となった。

 

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