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光岡眞矢の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第361回】

俊足を生かした裏への抜け出しなどオフザボールの動きに秀でたFW光岡眞矢。

高速ドリブルで相手を置き去りにできるトップスピードが持ち味。

高卒で横浜フリューゲルスに入団すると、ルーキーイヤーの第11節ガンバ大阪戦でJリーグ初出場。
その試合の前半開始2分にJリーグ初ゴールを決めるという印象的なデビューを飾った。

2002年に所属したベガルタ仙台ではチャンスメーカーとして活躍。ベガルタの東北地方のクラブとして初のJ1昇格に貢献した。

光岡眞矢のJリーグ入り前

光岡は1976年に神奈川県に生まれた。

2歳上の兄の影響でサッカーを始め、松浪中学校卒業後、日本大学藤沢高等学校に入学。同学年に島田周輔(横浜マリノス)がいる。

高校2年次から2年連続で国体に出場。3年次に桐光学園とともに高校総体に出場している。

高校卒業後、地元のプロチームである横浜フリューゲルスに入団する。

光岡眞矢のJリーグ入り後

光岡は、18歳ながら4月26日の第11節ガンバ大阪戦で初スタメンを飾ると、前半2分に先制ゴールを決め、センセーショナルなデビューを飾った。

この年のフリューゲルスは、元ブラジル代表のエバイール、ジーニョ、若手の前園真聖吉田孝行、元日本代表の前田治など攻撃的な選手に豊富なタレント陣を誇っていたが、光岡は18歳ながらスピードとドリブルを武器にリーグ戦9試合に出場し2ゴールを決めた。

しかし翌年以降は出場機会が減少し、1998年にハンス・オフト監督が率いる京都パープルサンガへ移籍。

加入1年目は第2節清水エスパルス戦からベンチ入りを果たすと、第4節鹿島アントラーズ戦で移籍後初出場。しかしこの試合は柳沢敦に4得点を決められ、0-6で大敗している。

この年の京都は元日本代表の黒崎比差支とブラジル人FWエジミウソンがスタートから起用される試合が多かった。
光岡はスーパーサブとしてコンスタントに起用され、第16節ベルマーレ平塚戦では延長後半に劇的な決勝ゴールを決めた。
第17節サンフレッチェ広島戦では2ゴール目を記録し2-1の勝利に貢献した。

1999年の加入2年目は光岡自身プロで初となる開幕スタメンを飾る。
しかしチームは開幕から5連敗を喫し、光岡も左ひざの前十字じん帯断裂という大怪我を負った。

長期リハビリに入るも、京都では翌年も出番はなく、この年限りで契約満了となった。

2001年、川崎フロンターレとベガルタ仙台からオファーが届き、光岡はJ2のベガルタ仙台へ移籍を決意。

仙台では加入序盤は出場機会が少なかったが、次第に出場する機会を獲得し、リーグ戦21試合に出場し3ゴールを決め、ベガルタのJ1昇格に貢献した。
しかし、J1昇格後の2002年は出場機会が減りこの年限りで26歳でベガルタを退団。

翌年の2003年、高校時代の友人の紹介でJFLの佐川急便東京SCに入団。午前中に配達の仕事をして午後に練習参加をする毎日を送り、1年後に現役を引退する。

光岡眞矢の引退後と現在

光岡は引退後、不動産業に転職し営業職に就いている。

セカンドライフをどう生きるのか。引退後の人生のほうが圧倒的に長いのは誰もが分かっていても、人生の糧であるサッカーに見切りをつけるのは容易ではない。

きっと光岡にとってベガルタ仙台を退団後に経験した「働きながらサッカーを続けた1年間」がとても大きかったのだろうと思う。誰もが憧れる華やかな世界にいた人間が、翌年には電車に乗って職場に通い、汗を流して配送の仕事をしている。理想と現実のはざまで、20代後半に差し掛かった“元”サッカー選手は悩み、苦しんだのではないだろうか。

好きだからこそ未練なく離れられることだってある。
たとえその後にサッカーとは縁のない人生を歩んだとしても、あの時ピッチで輝いた時間は色褪せることはない。

その経験はやがて自信となり、誇りとなるのだ。

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