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松橋力蔵の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第392回】

高度な技術と正確なボールコントロールが持ち味の技巧派MF・松橋力蔵。

横浜マリノス在籍時は、チームトップレベルのテクニックを持ちながらも、出場機会に恵まれず京都に移籍。

京都パープルサンガでは前線のキーマンとして活躍。

松橋のJリーグ初ゴールは、京都パープルサンガにとってもJリーグ初ゴールとなるメモリアルゴールとなった。

松橋力蔵のJリーグ入り前


松橋力蔵は1968年に東京都調布市に生まれた。

小学校2年生の時にサッカーを始める。

中学校卒業後。千葉県立市原緑高等学校に進学。同学年に古川昌明(鹿島アントラーズ)、2学年上に石井正忠(鹿島アントラーズ)がいる。

高校時代は本田裕一郎監督のもとでサッカーを学ぶ。
選手権では千葉県ベスト4まで進出したものの、全国高校サッカー選手権への出場は叶わなかった。

1988年、高校卒業後に就職したが、プロ選手の道を諦めきれず日産ファームのセレクションを受験。
合格後に会社を退職し、アルバイトをしながらプレーを続けた。

1989年、日産の監督だった加茂周に認められ、トップチームに昇格。

1991年、アジアカップウィナーズカップでは、レナト、エバートン、柱谷幸一らと躍動し、決勝では中東のアル・ナスルを退け、日産は初優勝を果たした。
松橋は攻撃的MFとして活躍し、この大会で6得点を挙げる活躍を見せた。

1992年、Jリーグの開幕前年に開催されたヤマザキナビスコカップでは背番号8を付け開幕戦のガンバ大阪戦から出場を続け、6試合に出場した。

松橋力蔵のJリーグ入り後

1993年、Jリーグが開幕。
前年までレギュラーとしてプレーしていた松橋だったが、三浦文丈山田隆裕などの台頭によって出場機会を失い、シーズンを通して3試合の出場に留まった。

1994年、1995年も、マリノスの中盤には遠藤彰弘安永聡太郎上野良治ら若手が起用されたため、松橋は能力は認められながらも、出場機会は限られた。

1996年、ファームから8年間過ごした横浜マリノスを退団し、京都パープルサンガへ移籍。

松橋は開幕戦のヴェルディ川崎戦から先発出場。
マリノス時代の恩師であるオスカー監督のもとで山口貴之大熊裕司、アレシャンドレらと京都の中盤を形成した。

1996年3月23日、第3節鹿島アントラーズ戦では、Jリーグ初ゴールをフリーキックで決める。
このゴールは京都パープルサンガのJリーグ初ゴールでもあったが、試合は1-5で大敗している。

松橋はこのシーズン、キャリアハイとなるリーグ戦17試合で3ゴールをマークするも、勝ち点24しか積み上げられず、年間順位最下位に沈んだ。

1997年、この年からJリーグは固定背番号制に移行し、松橋は背番号14を背負った。
京都はラモス瑠偉、藤吉信次武田修宏らを獲得し巻き返しを図るも、年間順位14位となった。
松橋自身もリーグ戦10試合の出場に留まり、この年限りで京都を退団した。

1998年、JFLに昇格したジヤトコサッカー部に入団。
新村泰彦、大石尚哉、松原忠明らとプレー。松橋はチームの大黒柱として、チームを牽引した。

2001年、4シーズンを過ごしたジャトコを退団し33歳で現役を引退した。

松橋力蔵の引退後と現在

松橋は引退後、指導者に転身。

ジヤトコサッカー部でアシスタントコーチを務めた後、2004年から2020年まで古巣のマリノスでユースの指導者を務めた。

その後、2022年にアルビレックス新潟の監督に就任している。

松橋は指導者としてキャリアを確実に積み上げている。

高校卒業後にアルバイトをしながら、プロ選手を目指した10代。

玄人もうなるほどの技術を身に着けながらも、出場機会に恵まれなかった現役時代。

順風満帆とはいかなかった時間を生きてきた松橋だからこそ、きっとサッカーとの向き合い方も真摯になるのではないだろうか。

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