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前田高孝の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第373回】

高校時代は大きな実績はなかったが、潜在能力の高さを評価され、2004年にテスト入団で清水エスパルスに入団したFW前田高孝。

しかし入団後まもなく膝じん帯断裂という大怪我を負い、公式戦出場のないまま2年で戦力外となってしまう。

その後バックパッカーとして海外に渡り、世界を放浪。

帰国後に大学サッカー指導者、ホームレス日本代表のコーチ、そして高校サッカー部の監督という異色の人生を送る。

前田高孝のJリーグ入り前

前田は1985年に滋賀県東浅井郡に、両親とも教師という家庭に生まれた。

長浜市立虎姫小学校入学後に少年団でサッカーを始め、キャプテンを務めた。

小学校卒業後は、地元の公立中学ではなく、私立の近江兄弟社中学校へ進み、クラブチームでサッカーを続けた。
中学2年時に長浜市の選抜チームに選ばれ、姉妹都市との交換留学でドイツ遠征を経験した。

中学卒業後は草津東高校へ進学。
高校3年次に出場した選手権の県予選はベスト8で敗退。大学進学を考え、サッカーからの引退を考えたが、サッカー部の監督にプロテストの受験を懇願した。

監督からの紹介で清水エスパルスのテストを受ける。
JFLのホンダFCとの練習試合で2点を奪う活躍を見せ、見事に清水エスパルス入団を勝ち取る。

前田高孝のJリーグ入り後

高校卒業後の2004年に清水エスパルスに入団する。
しかし、入団後間もなく、練習試合で膝の前十字じん帯を断裂するという大怪我を負い、ルーキーイヤーはリハビリに費やすことになる。

2005年、監督に長谷川健太が就任し、心機一転巻き返しを図るも、サテライトでの出場が続き、トップに上がることはなく、この年限りでエスパルスを退団。

2006年、合同トライアウトへの参加をきっかけにシンガポールプレミアリーグのアルビレックス新潟・シンガポール(以下アルビS)と契約を結ぶ。

初めての海外リーグでのプレーだったが、新潟シンガポールは全員が日本人という環境だったため、生活面での大きな変化はなかったという。
入団後、肉離れで出遅れるもカップ戦で結果を出し、リーグ戦11試合に出場し5得点を挙げる活躍を見せた。

アルビSからは契約更新の打診を受けるも、Jリーグ復帰を目指し1年で退団。
日本に帰国し、各クラブのテストを受けるもオファーはなく、JFLのMIOびわこ滋賀へ入団。

MIOびわこ滋賀ではゴミ収集の仕事をしながらサッカーを続けるという生活を送るが、サッカーだけで生活を送るために退団。

ドイツへ渡り、様々なクラブの練習に参加し5部のFSVデレンベルクと契約を結ぶ。
ドイツでは5部リーグといえど、給料も出て、食事と家の手配もあったため生活を送ることができた。

FSVデレンベルクでプレーしながら、上位リーグでのプレーを志しルーマニアやドイツのクラブのテストを受験するがテスト中に古傷である膝を負傷。
22歳で現役を引退することになる。

前田高孝の引退後と現在

前田は日本に帰国後、関西学院大学に入学。
大学4年からは関西学院大学サッカー部のコーチとなり、卒業後はヘッドコーチを務めた。

また、前田は大学時代にバックパッカーとしてマレーシア、タイ、ラオス、ベトナム、インドなど世界を回った経験を元にボランティアに興味を持つようになる。

特にインドのマザーテレサの施設を訪れた際に参加したボランティアで、貧困について関心を持つようになる。
日本に帰国後、大阪府西成区に居住し、児童養護施設にスタッフとして勤務。
ここでホームレスの社会復帰や共存を目的としたホームレス達によるサッカーの祭典「ホームレスワールドカップ」の存在を知る。

そして前田は日本の代表チームである「野武士ジャパン」のコーチを務めた。大阪の路上生活者に声をかけ選手を集め、練習の指導を行なうなど、社会復帰に向けた手助けを行った。

関西学院大学の指導者やボランティア活動で実績を残した前田は、滋賀県の近江高校サッカー部の監督に就任することになる。
部員4人からのスタートだったが、部員集めや環境整備に奔走し、1年で部員を70名増やし、2年でインターハイ予選滋賀県大会を優勝するなど快進撃を続けた。

前田高孝は、2021年にAmazonでこれまでの半生を描いた「サバイバルに生きていく: 世界を放浪した異色の元Jリーガー」を出版している。
私は編集という立場でこの書籍の制作に携わったのだが、現役時代の海外挑戦の話や、バックパッカーの思い出、ホームレス指導者の話、近江高校の画期的なプロジェクトなど、非常に興味深い内容だった。

これだけ濃い生き方をしている男の言葉は、とても重い。
中でも私が一番印象に残っている言葉がある。
前田がエスパルスをクビになり、世界を転々としながらテストを受け今後のサッカー人生を模索していた時の言葉だ。

「そのトライアウトでは過去にないくらい、めちゃくちゃ調子が良かったんです。いつもと違うなと思って、プレーを続けていたんですが着地をしたときに膝を怪我したんですよ。私は痛みを感じながらも、“これでサッカーを辞められる”と思ったのを覚えています。もうこれでサッカーをやらなくてすむんだと思うと、ホッとしましたね。」

前田はサッカーが好きで仕方なかったはずだ。念願叶ってプロになり、挫折を経験しながらも海外に自分の居場所を求め、戦いの場を探し続けた。
本来、怪我をするというのはサッカー選手にとって一番避けたいことであるのに、「これで大好きなサッカーを辞められる」と男は言ったのだ。

なんて嘘のない真っすぐな言葉だろうと思い、とても心に刺さったのを覚えている。
好きで好きで大好きでどうしようもないものを嫌いになる。嫌いにならなくてはいけない。本当ならそんな経験したくないのだが、長い人生において思い通りに行く方が少ない。
サッカーではないにしろ、似たような経験をした人も多いのではないだろうか。

書籍でも語っているが、前田高孝は新たな挑戦を次々に行っている。そこに共通しているのは「枠にとらわれない」ということだ。
サッカーも、仕事も、人生も。決められた形など存在しないということを、実経験を元に語る前田の言葉はとてもまっすぐだ。

順風満帆とは言えないサッカー生活ではあったが、その経験が挑戦の材料になっていることは言うまでもない。

前田高孝の航海は始まったばかりだ。


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