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前田遼一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第507回】

Jリーグ史上初の2年連続得点王を獲得した孤高のストライカー前田遼一。

滞空時間の長いヘッド、正確な両足のシュート、そしてパスを引き出す能力はJ屈指であり、万能型センターFWとしてジュビロ磐田で活躍した。

特筆すべきは相手マークを巧みに外す動きだ。

激しいマークを受けても一瞬のスピードで交わし、自身でゴールを奪うだけでなく2列目からの飛び出しに絶妙に合わせ、精度の高いポストプレーで数々の得点を生んだ。

日本代表としても7年間に渡り招集され、国際Aマッチ33試合で10得点を記録。2011年にはザッケローニ監督のもとで貴重なポストマンとして活躍し、アジアカップ制覇に貢献。

非常に謙虚であり、寡黙な人間性で知られた前田遼一はそのすべてをピッチで証明した。

前田遼一のJリーグ入り前


前田は1981年に兵庫県神戸市に生まれた。
1歳の時に兵庫を離れ、アメリカ・ロサンゼルスで7歳まで過ごした。

小学校2年生の時に帰国し、東京の小学校に入学後、3年生の時に横浜市に転居し本格的にサッカーを始めた。

小学校6年生の時に全国高校サッカー選手権大会に暁星高校が出場したのをきっかけに、進学校である中高一貫の暁星中学校に進学。
サッカー部に所属した。
しかし当時の暁星高校のグラウンドは、選手権の学校紹介で「日本一狭いグラウンドで練習しているチーム」と紹介されたほどグラウンドが小さかったため、練習試合の際は近くの中学校のグラウンドを借りるほどだった。

前田は毎朝電車で1時間かけて通学し7時前から朝練習を行った。
当時は様々なポジションでプレーし、時にはDFでプレーすることもあった。
中学時代は東京選抜や関東選抜に選出された。

暁星高校進学後は、1年次からレギュラーとしてプレー。
3年間で選手権には出場できなかったが、2年、3年次は東京都予選の準決勝まで進出した。
2年次にはインターハイに出場し、大会優秀選手に選出された。また国体の東京都選抜に選出されベスト8入りに貢献。
3年次にはキャプテンとしてチームを牽引。U-18日本代表入りを果たした。

高校卒業後、慶応大学への推薦が決まっていた前田だったが、ジュビロ磐田からオファーを受けJリーグ入りを決意。
この年の高卒でJリーグ入りした選手の中でJクラブからオファーを受けた数は前田が最も多く、13チームからオファーを受けての入団だった。
同期入団には松下太輔(ジュビロユース)、熊林親吾(秋田商業高校)、清野智秋(秋田商業高校)、佐伯直哉(国士舘大学)がいる。

前田遼一のJリーグ入り後


前田は入団1年目の2000年5月3日1stステージ第10節川崎フロンターレ戦でJリーグでベンチ入りを果たすと、後半38分にラドチェンコと交代でJリーグデビューを飾った。
ルーキーイヤーはこの試合のみの出場に留まったが、U-19日本代表として挑んだ1月23日のジャパンユースカップ2000の3位決定戦のパラグアイ代表との試合でゴールを決め勝利に貢献するなど年代別代表戦で存在感を示した。

2年目のシーズンはリーグ戦9試合で2ゴールを記録。
天皇杯、ヤマザキナビスコカップでも得点を記録し、それまでMFでプレーしていた前田はストライカーとしての片鱗を見せる。
同年10月にはフィリップ・トルシエ監督により日本代表候補合宿に呼ばれている。

飛躍が期待された3年目の2002年だったが、6月に激しい接触プレーで右膝の外側半月板を縦断裂。
長期離脱を余儀なくされ、この年はリーグ戦4試合で無得点に留まった。

2003年、それまでコーチであった柳下正明が監督に就任すると、前田は出場機会を大幅に増やす。
開幕戦の横浜F・マリノスとの試合でゴールを決めると、以降はグラウ、中山雅史とともにFWで起用されリーグ戦28試合に出場し7ゴールを決めた。

2004年はU-23日本代表としてアテネオリンピック最終予選に出場。
本戦出場も期待されたが、惜しくもバックアップメンバーに留まった。

2005年からは点取り屋として覚醒。
3年連続リーグ戦で2桁得点を記録し、名実ともにエースとして君臨した。
ただ得点を重ねるだけでなく、2列目の選手の動きを生かすポストプレーで得点を演出。
更には前線から激しくボールを追うハードワークに磨きがかかり、ストライカー前田遼一の能力が開花した。

2006年にはイビチャ・オシムにより日本代表に選出。
2007年10月17日にはエジプト代表戦で国際Aマッチ初ゴールを挙げた。

2009年には韓国代表FW李根鎬(イ・グノ)とのコンビで得点を量産。
リーグ戦34試合で20ゴールを決め、初のJリーグ得点王に輝くとともに、この年のリーグベストイレブンに選出された。

2010年も活躍は揺るがず、リーグ17得点を記録。
名古屋グランパスのケネディと同得点ながら史上初の2年連続での得点王とリーグベストイレブンに選出。

2011年には日本代表としてアルベルト・ザッケローニ監督の下で1トップを務める。
この年出場したアジアカップでは準決勝の日韓戦でゴールを決めるなど活躍し、日本の優勝に貢献した。

その後もザッケローニ監督のもとで前田の持ち味である2列目を生かすポストプレーは重宝され、主力としてプレー。

2013年にはワールドカップアジア最終予選、FIFAコンフェデレーションズカップに出場するも、得点を奪うことは出来ず、2014年のブラジルワールドカップ日本代表には選出されなかった。以降、代表からは遠ざかるようになった。

2013年はジュビロ磐田が開幕戦7戦勝利がないなど不振に陥り、前田自身はリーグ戦で9ゴールを決めたもののJ2に降格した。

2014年はジュビロに残留し、1年でのJ1復帰を絶対目標に掲げたが、リーグ戦は4位に留まりこの年をもってジュビロを退団。

2015年はFC東京へ完全移籍。
入団1年目は前線の起点となり、ポストマンとして持ち味を発揮。
リーグ戦30試合で9ゴールをマークするなど活躍した。

2017年は大久保嘉人、ピーター・ウタカ、阿部拓馬、永井謙佑など豊富なタレント陣とレギュラーを争う形となり、控えに回ることが増えたがコンスタントに出場機会を得る。
2018年もディエゴ・オリヴェイラ、永井謙佑の控えに回ることが多かったがリーグ戦18試合に出場1ゴールをマーク。
この年は出場機会を求めて、J3のFC東京U-23でもプレーしたが、同年12月に契約満了が発表された。

2019年はJ2のFC岐阜へ移籍。
スタメンでの出場機会は少なかったがベテランとしてチームを支えるも、開幕からチーム状況は上向かずJ3に降格。

2020年も残留し、高崎寛之らとともに1年でのJ2復帰を目指すもリーグ戦6位に留まり、この年をもって岐阜を退団。

現役続行か引退か、様々な報道が出るも2021年1月に正式に現役引退がリリースされた。

前田遼一の引退後と現在


前田は現役引退後、2021年からジュビロ磐田U-18のコーチに就任。

2022年にはジュビロ磐田U-18の監督に就任した。

2023年には、指導者として歩み始めてまだ3年目ながら森保一監督率いる日本代表のコーチに就任。
同じく就任した名波浩コーチと共にに2026年ワールドカップを目指して戦っている。

かつてジュビロ磐田で黄金時代を築いた名波浩と、その名波とともにプレーし中山雅史、高原直泰といったジュビロ磐田のストライカーの跡を継いだ前田遼一によって日本代表はどのようなチームに仕上がるのか、楽しみでならない。

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