187センチ、85キロという恵まれた体格を生かした堅実な守備でベルマーレ平塚、アビスパ福岡、ザスパ草津で活躍した小島伸幸。
ハイボール処理がうまく、守備範囲も広い。
性格が明るくコミュニケーション能力が長けている小島伸幸は選手からの信頼も厚かった。
サッカー選手としては遅咲きでベルマーレ平塚の正GKになったのは30歳手前。
ワールドカップに日本代表として初めて出場したのは30歳を超えてからだ。
小島伸幸は第3GKというポジションながら、川口能活、楢崎正剛という若いGKをサポートした。
三浦知良や北澤豪といった日本の中心選手が直前で代表落ちをする中、動揺しないようにと小島は最年長選手としてチームを影から支えた。
小島伸幸のプロ入り前
小学4年生の時にサッカーと出会い、小学5年生から本格的にサッカーを始める。
新島学園中学校に進学し、サッカー部でプレー。
GKに転身したのは新島学園高校時代からである。
当時、新島学園にはGKというポジションを指導できるコーチがおらず、小島は独学で練習し、レギュラーを獲得した。
高校を卒業後、同志社大学に進学。
ここで頭角を現し、1987年のザグレブ・ユニバーシアード大会代表に選出された。
大学卒業後、日本サッカーリーグ1部のフジタへ加入。
しかしフジタには一学年下の古島清人がおり、国見高校卒業後フジタ入りしていた古島が正GKとして起用された。
小島は加入してから3年ほどは数試合出番があったものの、小島加入4年目にフジタが1991年の日本サッカーリーグ2部優勝を決めた年は遂に1試合も出場出来なかった。
1992年も出場は叶わず、フジタがベルマーレ平塚となりJリーグ昇格を果たした1993年も出場試合は0に終わり、JFL優勝の瞬間もベンチで見届けた。
1994年、ベルマーレ平塚はジュビロ磐田とともにJリーグへ昇格。
小島はプロ契約を結ばず社員Jリーガーとしてチームに残ることとなった。
小島伸幸のプロ入り後
Jリーグに昇格後も序盤は古島清人が正GKとして君臨していたが、ベルマーレは勝ちきれない試合が続き、流れを変える為に小島が正GKとして抜擢される。
するとそのまま持ち前の堅実な守備で正GKに定着。サントリーシリーズは12チーム中11位に沈むも、ニコスシリーズは守備を立て直し、2位へ躍進。
結果的に小島はシーズンを通して41試合に出場。シーズン終了後にはプロ契約を結んだ。
1995年には29歳にして初めて日本代表に選出。
その年にイングランドで開催された日本対ブラジル戦で代表デビューを果たす。
試合は前半開始早々にロベルトカルロスの地を這うようなミドルシュートが決まる。
小島は後年、このシュートを距離もあった為、身体のどこかに当てられるだろうと思ったがあまりにも早く、気がついたら左脇の下を抜けていたと話しており、日本では経験したことのないシュートだったと語っている。
ブラジルはその後、当時横浜フリューゲルスに在籍していたジーニョが2得点を奪い、日本は0-3で敗れている。
小島はこの試合で左手小指の骨折を負うがフル出場を果たし、3失点したものの劣勢の場面では中盤まで飛び出して、ショルダーチャージでジュニーニョに競り勝つなど見せ場を作った。
1995年はその後も8月のコスタリカ戦、ブラジル戦でも代表のゴールマウスを守った。
ベルマーレでも引き続き守護神として活躍。1997年には背番号を1にする。
1998年にはフランスワールドカップ日本代表に選出。
32歳で代表4キャップしか経験のない小島伸幸の選出はメディアから注目された。
日本代表には川口能活、楢崎正剛という若手GKがおり、小島は第3GKとしての評価だったが、持ち前の明るさで献身的にチームを支えた。
1998年末、ベルマーレ親会社の経営不振による主力戦車が放出され、小島は1999年、アビスパ福岡へ移籍した。
小島は経験を生かし、加入直後からアビスパ福岡の正GKとなる。
小島は加入2シーズンはフル出場を果たすも、3年目のシーズンにアビスパはJ2へ降格。
小島自身も出場試合が減少しており、このシーズン限りでアビスパを離れることになった。
小島は35歳になっており、他のJチームの入団テストを受けるなど移籍先を模索するもJリーグの中には小島を獲得するチームは現れず、最終的に群馬県リーグに在籍していたザスパ草津へコーチ兼任選手として加入する。
小島や奥野僚右(元鹿島アントラーズなど)を獲得した草津はカテゴリーを年々上げていき、遂に2005年にJ2昇格を果たす。
再びJリーグの舞台に戻ってきた小島は39歳ながら23試合に出場。しかし草津はこのシーズン最下位に沈んだ。
小島は11月に当時J2の最年長出場記録を更新し、翌年1月に40歳で現役を引退した。
小島伸幸の引退後と現在
小島は引退後、草津のアドバイザーを務める傍ら、サッカー解説業も行なっている。
GK出身の解説者は少なく、GK目線での分析や解説は他の解説者とは一線を画している。
2008年には日本大学サッカー部コーチ、2015年からはアルテリーヴォ和歌山のアドバイザーにも就任。
小島はGKにとって一番大切なのは人間性であるとインタビューで話している。
失点した責任を背負い込めるかどうか、それがないと監督やチームメイトから信頼されず息のあったプレーができない。
サッカー選手となった後もベンチウォーマーを乗り越え、日本代表、県リーグからJリーグ昇格を果たすなど様々な苦難を乗り越えてきた小島伸幸。
40歳まで現役でプレーできたのは実力はもちろん、その人間性によるところも大きいのではないだろうか。