ドレッドヘアーが印象的なゴールキーパー小針清允。
ハイボールにも強く、的確なタイミングでキャッチとパンチングを使い分け、抜群の反射神経で一旦乗り出すと止まらない。
小針は各年代別代表に早くから選出され、早くからその将来を嘱望された。
ヴェルディ川崎、ヴィッセル神戸、ベガルタ仙台とJリーグチームを渡り歩き、栃木SCやガイナーレ鳥取では守護神としてチームのJリーグ昇格に貢献した。
小針清允のプロ入り前
7歳の頃にキャプテン翼を見たことがきっかけでサッカーを始めた。そして9歳の時にメキシコワールドカップで活躍していたマラドーナを見て、プロサッカー選手になる夢を持つようになった。
小学校の時には全日本少年サッカー大会に出場するなど早くから頭角を現す。
中学校入学後、読売(現東京ヴェルディ)のジュニアユースに入る。同期には佐伯直哉、佐藤悠介がいた。
東京都立北豊島工業高等学校へ進学後は、読売日本ユースへ昇格。
1993年、U-17日本代表に選出。日本で開催されたFIFAU-17世界選手権に出場。
財前宣之、中田英寿、宮本恒靖、松田直樹、戸田和幸らと共に戦いグループリーグを突破するも準々決勝でナイジェリアに1-2で敗れた。
高校卒業後の1996年にヴェルディ川崎のトップチームに昇格。プロ契約を結んだ。
小針清允のプロ入り後
ヴェルディ入団後は、日本代表の菊池新吉、本並健治の牙城を崩せずなかなか出場機会に恵まれなかった。
しかし年代別代表には招集を受け、1997年にはFIFAU-20ワールドカップに出場を果たした。
1997年1stステージ第10節名古屋グランパスエイト戦でJリーグデビューを果たす。
その後もU-20、U-22日本代表に選出されワールドユースやシドニーオリンピックアジア予選に招集を受けたが、オリンピックにはオーバーエイジ枠で楢崎正剛が選出された事もあり本戦メンバーからは漏れた。
ヴェルディには入団から5年間在籍するも、リーグ戦4試合の出場に留まり2000年をもって退団しヴィッセル神戸へレンタル移籍を果たす。
しかしヴィッセル神戸でも出場機会に恵まれず、2002年にベガルタ仙台へ再びレンタル移籍を果たした。
序盤戦は控えだったが、1stステージ第7節FC東京戦に出場しベガルタでのデビューを果たすとこの試合の勝利に貢献。
翌年の2003年のリーグ戦は19試合連続勝利なしという苦しいシーズンとなったが2ndステージ第9節ガンバ大阪戦でガンバの猛攻に耐え抜き、ゴールを死守。無失点で逃げ切り1-0で勝利に貢献した。
しかし序盤の取りこぼしが響き、ベガルタ仙台はJ2へ降格。多くの主力選手がチームを去るなか小針はレンタル期間を延長し残留する。
2004年、2005年はリーグ戦1試合の出場に留まるも2006年にレギュラーを奪回。安定した守備でリーグ戦25試合に出場を果たした。
しかし2007年はシュナイダー潤之介と林卓人の加入と膝の故障も重なり出場機会が減少。この年をもって戦力外通告を受け退団する。
2008年にはJFLの栃木SCに移籍。
栃木では加入初年度から全試合に先発フル出場し、栃木のJリーグ昇格に貢献。小針自身もベストイレブンにも選ばれる活躍を見せた。
2009年も正GKとなるがチームの守備の不安定さやチーム若返りを進める方針もあり出場機会が激減。戦力外通告を受けた。
2010年ガイナーレ鳥取に完全移籍。
移籍後すぐにレギュラーに定着。公式戦全試合先発フル出場し、チームのJFL優勝と自身2度目のJ2昇格に貢献。ベストイレブンにも選出された。
2014年契約満了となりガイナーレを退団。2015年2月に19年間のプロ生活に別れを告げ引退を表明した。
小針はJ1ではリーグ戦通算37試合、J2では通算156試合、J3では通算21試合に出場の記録を残した。
小針清允の引退後と現在
小針は引退後、帝京大学サッカー部のGKコーチを務め、2018年からは将来のJリーグ入りを目指す南葛SCのGKコーチに選手兼任で登録されている。
小針清允といえばまず先にイメージするのがドレッドヘアーだ。
好きな音楽の影響でプロ1年目から始めたドレッドヘアーは今でも小針のトレードマークだ。
サッカーキングのインタビューによると20年程同じ美容室に通っており、手入れは年に1.2回で済むとの事である。これはとても意外だった。
今後Jリーグクラブの指導者としてJのピッチに戻った時にも、トレードマークのドレッドヘアーでいてほしいと思う今日この頃である。