わずか16歳と7ヶ月で日本サッカーリーグデビューを飾った男がいる。
菊原志郎。
その柔らかなボールタッチとハイレベルな技術に周囲は菊原を「天才」と称した。
ゲームメーカーとして攻撃のタメを作り、空いたスペースに絶妙なスルーパスを出す。
光り輝くはずだった天才は怪我に泣かされJリーグのピッチでは記録に残る成績を残すことはできなかった。
類希な才能を持った天才、菊原志郎に迫る。
菊原志郎のプロ入り前
小学校4年生から読売クラブの下部組織でプレー。
その才能は幼い頃から一目置かれる。
神奈川県立菅高等学校に入学するが、サッカー部には所属せずに読売でのプレーを選択。
そして16歳の時に読売クラブのトップチームから声がかかり、菊原は16歳7ヶ月で日本サッカーリーグデビューを果たす。
これは日本サッカーリーグ史上、最年少での出場記録となった。
当時の読売サッカークラブはDFには松木安太郎や加藤久、MFにはラモス瑠偉や戸塚哲也、FWには武田修宏や三浦知良ら日本代表クラスの選手が多く在籍しており、菊原は日頃の練習から高いレベルでサッカーができた。
デビューを飾った1985年は16歳ながら7試合のリーグ戦に出場。
1988年は18試合に出場し3得点、1989年は21試合に出場し3得点を記録した。
菊原は読売のレベルが高く個性の強い選手の中においてもその存在感を発揮し続けるが勉学にも力を抜かず、一般入試で中央大学経済学部に入学。22歳で卒業した。
1990年には活躍が認められ、若干20歳で日本代表に選出される。
菊原はこの年、日本代表として5試合に出場した。
その後も読売でプレーを続け、菊原が23歳の時に読売はヴェルディ川崎としてJリーグ開幕を迎える。
菊原志郎のプロ入り後
菊原はJリーグ開幕年から卓越した技術とサッカーセンスで注目されるが、在籍するヴェルディのMFには日本代表のラモス瑠偉、北澤豪、柱谷哲二、外国人のビスマルク、ハンセン、若手の永井秀樹、石塚啓次など有力選手が多数在籍しており、菊原はなかなか出番に恵まれなかった。
菊原は出場機会を求めて移籍を決意する。
移籍先は浦和レッズ。
浦和は日本サッカーリーグ、天皇杯をそれぞれ4度優勝している三菱重工サッカー部を前身にもつ名門クラブであったが、Jリーグ初年度は第1ステージ、第2ステージ共に最下位と苦しんでいた。
菊原はJリーグ「レンタル移籍第1号」として浦和に加入。
レッズには実弟である菊原伸郎が在籍していた為、兄弟プレーヤーとしても注目された。
しかし浦和においても高い技術は認められながらも身長167センチ、60キロ前後の菊原は怪我に泣かされ続けた。
出場した試合では絶妙なスルーパスやスピードにのったドリブルでファンを沸かせるも、浦和に2年在籍し出場した試合はリーグ戦9試合に留まった。
1996年にはヴェルディ川崎に復帰するも出場機会はなく、菊原は27歳で引退をした。
天才と呼ばれた菊原の出場記録は日本サッカーリーグ89試合、Jリーグ15試合、日本代表5試合というものだった。
菊原志郎の引退後と現在
菊原は引退後、指導者へ転身。
ヴェルディのジュニアユース、ユース、トップチームのコーチを務めた。
2012年からJFAアカデミー福島男子U-14の監督を務めている。
ラモスは現役時代、菊原に対して「初めて自分より上手い日本人に出会った」と言ったという。
誰しもがその才能を認め、菊原の未来を嘱望した。
生まれてくるのがもう少し遅かったら、フィジカルがもう少し強かったら、怪我をしなかったら・・・
考えても仕方ないことなのかもしれないが、引退して20年以上経った今でもそう考えてしまうほど菊原の才能は類い稀なるものだった。