左右のサイドバックやボランチなど、守備的なポジションでガンバ大阪を支えた木場昌雄。
ガンバ大阪には12年間在籍し、リーグ戦223試合に出場。2001年から2年間に渡ってキャプテンも務めた。
現役晩年はタイへ移住し、タイプレミアリーグでプレー。
サッカーを通じて東南アジアと日本の架け橋となっている。
木場昌雄のJリーグ入り前
小学校2年生の時に友達に誘われてサッカーを始める。小学校時代は全国大会の予選に出場する為修学旅行にもいかずにサッカーをしていた。
西淡湊サッカークラブに入団してサッカーを学び、御原中学校に入学。同級生に興津大三(清水エスパルス)がいる。
中学校卒業後、強豪の滝川第二高校に進学。同級生に吉坂圭介(大分トリニータ)、寺川能人(横浜マリノス)、2学年上に森敦彦(横浜フリューゲルス)、2学年下に波戸康広(横浜フリューゲルス)がいる。
高校2年次に、兵庫県代表として第70回全国高等学校サッカー選手権大会に出場する。1回戦の帝京戦でゴールを決めるも1-2で敗れている。
高校3年次には、キャプテンとしてチームを率い、自身はU-19日本代表に選出されるなど活躍。また大阪府選抜に選出され、国体に出場している。
高校卒業後、誘いを受けていたガンバ大阪へ入団する。
木場昌雄のJリーグ入り後
1993年にガンバ大阪に入団。
入団後2年間は出場機会が少なかったが、1995年サントリーシリーズから左サイドバックのレギュラーとして起用されるようになり出場機会を増やす。
1995年はリーグ戦28試合に出場した。
1996年の5月18日、第15節セレッソ大阪との大阪ダービーでは後半35分にヒルハウスと交代で出場し、終了直前にJリーグ初ゴールを決め2-0での勝利に貢献した。
1997年は左ひざの怪我でリーグ戦出場が9試合と激減するが、1998年は両サイドバックや守備的MFができる万能性が評価され、21試合に出場。
2000年は副キャプテンを務め、2001年から2年間キャプテンとしてチームをまとめ、2年連続フル出場を果たした。
2003年もリーグ戦28試合に出場したが、2004年には古傷の左ひざの手術を受けた影響でリーグ戦2試合の出場に留まり、12年間在籍したガンバを退団した。
2004年はアビスパ福岡へ移籍。しかし、左ひざの調子が思わしくなく公式戦の出場がないまま退団。
2005年からは北信越2部リーグのヴァリエンテ富山に入団。Jリーグでの経験を生かして選手権コーチとしてプレーする。
2007年には関西1部リーグのMIOびわこ草津へ移籍し、チームの全国社会人サッカー選手権大会での初優勝に貢献。MIOびわこ草津は日本フットボールリーグ(JFL)へ昇格を果たした。
2008年からは戦いの場をタイへ移す。
2008年はタイ・プレミアリーグのカスタムズFCと契約し、リーグ戦11試合に出場したがチームは16位でタイ・リーグ2(2部リーグ)に降格した。
2009年もカスタムズFCと契約し、2シーズンに渡ってプレー。2010年に現役を引退した。
木場昌雄の引退後と現在
木場は引退後、2011年9月に東南アジア出身のサッカー選手をJリーグへ輩出させることと東南アジアサッカーの発展を目的に一般社団法人『Japan Dream Football Association』を設立。
東南アジアのサッカーレベルの底上げに貢献している。
2018年からはガンバ大阪選手OB会の副会長としても活動している。
今では東南アジア出身のJリーガーが続々と誕生。タイからはチャナティップ(川崎フロンターレ)を始め、カーウィン(コンサドーレ札幌)、ティーラトン(横浜F・マリノス)、ティーラシン(清水エスパルス)、インドネシアからはアルハン(東京ヴェルディ)、ベトナムからはグエン・コンフオン(横浜FC)など多くの選手がプレーしている。
東南アジアのサッカー選手にとってJリーグでプレーすることはひとつの目標であり、実際に東南アジアの選手がJリーグで活躍していることからも、東南アジアのサッカーレベルは急激に上がっており、今後もJリーグでプレーする東南アジアの選手は増えていくだろう。
また東南アジアの選手を獲得することで経済面の効果も期待できる。例えばチャナティップがコンサドーレ札幌でプレーしていた時は、タイ人観光客の伸び率が前年比の約1.5倍となった。
インドネシア代表としてもプレーするアルハンが東京ヴェルディに入団したときは東京ヴェルディの公式Instagramのフォロワー数が約10倍に増加した。
今後もJリーグにとって東南アジアの位置づけはとても重要なものになっていくに違いない。