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波戸康広の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第274回】

スピードあるオーバーラップから絶妙なクロスを配給できるサイドバック波戸康広。

主にサイドバックとしてプレーするがFWからDFまで何処でもプレー出来るユーティリティプレーヤーでもある。

トルシエ監督から豊富な運動量と1対1の強さを評価され日本代表に抜擢。国際Aマッチ15試合に出場を果たした。

大宮アルディージャでは本職の右サイドバックだけでなく左サイドバックでもプレー。現役晩年に復帰したマリノスでは最年長DFとしてチームを支えた。

波戸康広のJリーグ入り前


波戸は1976年に兵庫県三原郡西淡町津井(現 南あわじ市)に生まれた。

小学1年でボールを蹴り始め3年時から本格的にサッカーを始めた。マラドーナの5人抜きを見て、プロのサッカー選手に憧れたという。県大会優勝を果たし、その後進学した西淡町立辰美中学校でも県大会準優勝を経験した。

中学卒業後、県内強豪校である滝川第二高校へ進学。

波戸は1年からレギュラーを獲得。後に横浜フリューゲルスで共にプレーをする事となる吉田孝行と2トップを組んだ。3年連続で全国高等学校総合体育大会に出場。3年時にはキャプテンとして全国高校サッカー選手権大会にも出場を果たした。

1995年、波戸は横浜フリューゲルスへ入団する。同期に楢崎正剛久保山由清吉田孝行がいた。

波戸康広のJリーグ入り後

波戸は入団後、ゲルト・エンゲルスの助言によりFWからウィングバックにコンバートされる。高卒ルーキーながらプロ1年目はリーグ戦9試合に出場。

1998年にレギュラーに定着するも、横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が決定。その年の天皇杯の優勝に貢献、最後のフリューゲルスメンバーとしてプレーした。

1999年、横浜Fマリノスへ入団。

波戸はストッパーにコンバートされ、11月には日本代表候補に初選出されたが怪我のため辞退した。

2000年、アルディレスが監督に就任すると、レギュラーに定着し、1stステージ優勝に貢献。

2001年4月にスペイン戦で日本代表デビューを飾り、右サイドバックに定着した。コンフェデレーション杯にもレギュラーとして出場するも、市川大祐とのポジション争いに敗れ2002年の日韓ワールドカップには出場出来なかった。

その後、腰椎捻挫を発症し懸命にリハビリをするも2003年以降出場機会が激減。出場機会を求め2004年に柏レイソルへ移籍。

柏レイソルではセンターバックやリベロでプレーし主力選手としてチームを支えたが、2005年入れ替え戦でヴァンフォーレ甲府に大敗を喫しチームはJ2降格となってしまう。

2006年より大宮アルディージャへ移籍。

ディフェンスの中心プレーヤーとして活躍。左サイドバックでも起用された。

2010年、6年ぶりに横浜F・マリノスへ復帰。チーム最年長DFとして牽引。2010年はリーグ戦25試合に出場、2011年は16試合に出場するもこの年限りで現役生活にピリオドを打った。

波戸康広の引退後と現在

波戸は引退後、2012年よりマリノスのアンバサダーに就任。

2017年には日本将棋連盟によりれる『第7回国際将棋トーナメント』の代表選手に選ばれるなど将棋界でも活躍している。

波戸は小学校3年から将棋を始め、6年生の時に地区の将棋大会で優勝を経験。プロになってからも移動中の車内では専ら詰め将棋に興じる程の将棋好きとして知られる。将棋で学んだ事はサッカーにも生きていると語っている。

2015年に行われた波戸康広と渡辺明三冠(当時棋王)とのスペシャル対談は実に興味深いものであった。サッカー選手として日本代表まで上り詰め、将棋アマ2段の腕前を持つ波戸康広と審判の資格を取るほどサッカー好きとして知られ将棋界のトップに君臨する渡辺明氏。波戸はフリューゲルスに入団し、FWからDFへコンバートされた時に壁に当たったが、その時に将棋がヒントになったという。

サッカーも将棋もエリアによって選択するプレーが異なる。将棋で歩を突き捨ててスペースを作り、垂らした歩を取らせて駒をおびき出す展開と同じような現象がサッカー界にも存在する。

サッカーも将棋も心理戦であり周りを見る広い視野や判断力が重要になってくる。将棋を長時間指すにもサッカーと同様に体力は必要だしサッカーをするには将棋と同様に常に考えてプレーしなければいけない。サッカーも将棋も確固たる戦術の元で、それぞれの選手や駒が持ち味を持っていて連動していかなければ勝利は見えない。驚くほどサッカーと将棋には共通点があるのだ。

現在はサッカー界と将棋界で活躍する異色の存在である波戸康広。2つの世界を繋ぐパイプ役としての今後の活躍が楽しみだ。

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