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市川大祐の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第65回】

その日、普通の高校生が普通ではなくなった。

韓国の応援団「レッドデビル」で真っ赤に染まった韓国ソウル市のスタジアム。

1998年フランスワールドカップを目前に控えた頃、完全アウェーで挑んだ日本代表対韓国代表のスタメンにその男の名前はあった。

市川大祐 17歳。清水エスパルスユース所属。

高校在学中の17歳322日での日本代表戦出場は現在でも史上最年少記録である。

それまでJリーグにおいても90分間出場経験のない高校生は日の丸を背負い初めて90分間フル出場した。

フランスワールドカップ出場メンバーからは漏れたものの、誰もが日本の未来を市川大祐に期待した。

しかし市川大祐の19年間の現役生活は病気と怪我がつきまとった。

市川大祐のプロ入り前


市川は1980年に静岡県清水市(現清水区)に生まれた。

小学校3年生の時に清水FCに入り、その後は清水エスパルスジュニアユースに所属し、幼い頃から頭角を表す。

1995年に開催されたメニコンカップ クラブユース東西対抗戦に出場して最優秀選手を獲得。

また、U16日本代表に選出された。

1998年の春休み。市川は清水工業高校に通っていた17歳の時に沖縄県石垣島で行われた清水エスパルスのキャンプに呼ばれた。

市川はその時、若いユースの選手が経験を積む為にトップチームのキャンプに呼ばれたものだと思ったという。

しかしキャンプから帯同したユース選手は市川1人だけだった。

この時市川はトップの試合に出るかもしれないと強く感じた。

そしてJリーグ開幕一週間前に清水エスパルスのアルディレス監督からスタメンで使われることを伝えられる。

そして開幕戦のコンサドーレ戦、続く京都パープルサンガ戦に市川は出場を果たす。

その2試合が終わった後、市川は日本代表入りを伝えられる。

世間は17歳の異例の日本代表入りに注目し、大きな話題となった。

つい去年はテレビの前で見ていたジョホールバルの歓喜に胸を踊らせ、日本代表がワールドカップでどのような戦いをするのか楽しみにしていたのが、数ヶ月後にはその舞台に立つかもしれない状況に変わった。

市川は1998年4月1日にソウル特別市で開催された親善試合韓国戦で、日本代表デビューを果たす。

高校在学中の17歳322日での出場は史上最年少記録である。

同年に開催された1998 FIFAワールドカップでは、岡田武史監督の判断で三浦知良や北澤豪とともに直前で代表から漏れるが、市川は最後までチームに帯同した。

市川大祐のプロ入り後

高校を卒業した市川はそのまま清水エスパルスでプレー。

しかし、1998年度シーズンは天皇杯決勝である1999年1月1日の横浜フリューゲルス戦までスケジュールが詰められ、高校生とJリーガーの2足のわらじを履いていた市川は精神的にも肉体的にも無理をしており、エスパルスのペリマン監督から検査を勧められた結果、オーバートレーニング症候群であると診断される。

市川は後年、この時の状況をこう語っている。

「代表に選ばれたことで注目され、Jリーグの試合もあり、高校にも通っていたので肉体、精神的に休む時間が全くなかった。翌年、練習が始まると毎日、体がだるくて、重くて、どうしても動かない。住んでいたエスパルスの寮の3階に上るだけで息切れがした。夜は眠れませんでしたし『何で体が動かないのかな、もっと気持ちを入れて練習をやらなければダメなのかな』と思っていた中、検査でオーバートレーニング症候群が見つかった。原因が全然分からなくて…初めての感覚で、どうしたらいいか分からなかったので正直、ホッとしました」

清水エスパルスでは1999年のJリーグセカンドステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000での優勝に貢献したが、オーバートレーニング症候群の影響もあり1999年のワールドユース選手権を辞退し、U-22代表からも落選した。

しかし市川は輝きを取り戻す。2001年に日本代表トルシエ監督から召集を受けると日本代表に定着。

2002 FIFAワールドカップにも出場しチュニジア戦では中田英寿の得点をアシストした。

サイドにそれを本職とする選手を配置することが少ないトルシエのシステムにあって、2002年W杯の日本代表で唯一本職の右サイドのプレーヤーとして選出され、日本代表史上初となる決勝トーナメント進出に大きく貢献した。

日韓ワールド後も清水エスパルスでは不動の右サイドバックとして活躍。

しかしこの頃から市川は膝に怪我を抱えるようになり、ジーコ体制の日本代表には召集されなくなる。

その後、市川は毎シーズン怪我と戦うようになるがレギュラーとして出場し続けた。

しかし2010年に、エスパルスから戦力外通告を受け退団。

その後はヴァンフォーレ甲府やJ2の水戸ホーリーホックでプレーするもいずれも1年で戦力外通告を受けて退団。

2013年には当時JFLに所属していた藤枝MYFCへ移籍してプレーを続け、2015年には当時四国リーグのFC今治へ移籍、2016年にはJFLのヴァンラーレ八戸へと移籍。

2016年シーズン終了後、市川は36歳にして現役生活に別れを告げた。

市川大祐の引退後と現在

市川は引退後、清水エスパルス普及部に在籍し、現在はスクールコーチとして幼稚園から小学生の子どもたちを指導している。

若き日に日本中の期待を背負うことになった市川は、結果的に1度しかワールドカップには出場出来なかった。

しかし度重なる怪我や病気を乗り越え、複数のチームを渡り歩きながらも常にベストを尽くしてきた市川には他の人には得ることのできない経験という大きな財産がある。

市川が今後どのように選手を育成し、送り出すのか非常に興味深い。

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