身長164センチと小柄ながら、スピードを生かしたプレーで活躍したFW後藤太郎。
一瞬の瞬発力に長けており、裏への飛び出しと絶妙なポジショニングで得点を重ねた。
Jリーグ開幕元年の1993年には、名古屋グランパスでジョルジーニョに次ぐチーム2位となる6得点をマーク。
Jリーグ創成期は、ビスマルクのお祈りポーズや、カズダンスなどゴール後の派手なパフォーマンスが注目されたが、後藤太郎はゴールを決めても控えめにガッツポーズをするだけであり、その謙虚な姿勢が逆に注目を集めた。
1997年から所属したサガン鳥栖では、初代キャプテンとしてプレーし精神的支柱としてチームを支えた。
後藤太郎のJリーグ入り前
小学校3年生からサッカーを始め、中学校の時に広島県の学校から山口県下関市の学校へ転校。
中学卒業後にサッカーの名門である東海大学付属第五高校(現・東海大学付属福岡高校)へ入学した。高校時代はインターハイに出場するなどし、福岡県選抜に選出される活躍を見せた。
高校卒業後は、東海大学へ進学。同級生には飯島寿久、礒貝洋光、澤登正朗、加藤望がいた。大学時代は関東大学リーグ制覇や選手権などのタイトルを獲得し、東海大学の黄金期を支えた。
1992年、名古屋グランパスエイトからオファーを受けて入団する。
後藤太郎のJリーグ入り後
1993年Jリーグ開幕元年、平木隆三監督の元、5月16日1stステージ第1節鹿島アントラーズ戦で浅野哲也に代わって後半から出場。これが後藤太郎のJリーグデビュー戦となったが試合は0-5で大敗してしまった。
続く第2節浦和レッズ戦では右サイドハーフとして先発出場し、左からのクロスをゴール中央から右足で押し込んでJリーグ初ゴールをマーク。3-0での勝利に貢献した。
第9節ジェフ市原戦では沢入重雄とツートップを組み先発出場を果たすと、後半開始直後に右サイドから抜け出して先制ゴールをマーク。余談だが、このゴール後は片手を上げて飛び跳ねて喜びを表している。
その後もエスパルス戦やガンバ戦でも得点を挙げ、このシーズンはチーム2位となる6ゴールをマーク。このシーズンのゴールは全て利き足の右足によるものだった。
1994年は出場機会を増やし、リーグ戦24試合に出場するも得点は第12節のジュビロ磐田戦での1ゴールに留まった。
1995年ジェフユナイテッド市原へ移籍。
移籍1年目は途中出場が多かったが、リーグ戦12試合に出場。スピードに乗ったドリブルで攻撃にアクセントを与えた。しかし翌年は出場機会が減少。カップ戦のみの出場に留まり、リーグ戦への出場の機会はなかった。
1997年、JFLのサガン鳥栖に移籍。
鳥栖では初代サガン鳥栖主将に就任。加入初年度は左足首じん帯を痛めながらも攻撃の中心としてチームを牽引。2年間プレーし、1999年のサガン鳥栖J2昇格を見届け引退を表明した。
後藤太郎の引退後と現在
後藤太郎は引退後、サガン鳥栖のユースや徳山大学サッカー部の監督を歴任。
現在は母校である東海大学サッカー部の監督に就任している。
1997年、PJMジャパンという企業を親会社に持つ鳥栖フューチャーズが経営不振により解散。しかし復活を望むサポーターが5万人の署名を集め、任意団体の設立と運営計画がJリーグに超法規的措置として認められて新たなチーム「サガン鳥栖」が誕生。その初代キャプテンに任命されたのが27歳の後藤太郎だった。
誕生したばかりのチームには何もなかった。Jリーグチームから練習着が支給され、地元高校からビブス、用具メーカーからボールが寄贈された。プレーする環境を整えながらシーズンを戦っていく過酷な状況だった。
後藤はJリーグでの自身の経験を誕生したばかりのサガン鳥栖に注ぎ、2年間チームの為に走り続けた。チーム発足から2年後、サガン鳥栖はJ2へ昇格することになる。
誕生したばかりの、まだ何もなかったサガン鳥栖に与えた後藤太郎の功績は大きい。