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加藤望の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第112回】

攻撃的なポジションならどこでもこなし、2列目からの飛び出しでチャンスを演出する加藤望。

日立製作所時代から13年間所属した柏レイソルでは象徴として無くてはならない存在だった。

疲れを知らない運動量で前線からプレスをしかけ、高いテクニックで相手を抜き去るドリブル、正確なフリーキックが持ち味で1995年には日本代表候補にも選出された。

39歳まで現役を続けた加藤望のストイックさにプロの鑑であると尊敬の念を送る指導者、選手は数多い。

加藤望のプロ入り前


加藤は1969年に宮城県に生まれた。

向山小学校の時にサッカーを始め、東北学院中学校の時はMFやFWとしてプレー。

東北学院高校へ進学後はエースとして君臨し、3年時には宮城県代表として全国高校サッカー選手権へ出場。

永井秀樹や二宮浩擁する国見高校に0-5で敗れている。国見高校は順当に勝ち上がり、決勝で澤登正朗吉田康弘擁する東海大一を破り全国制覇を成し遂げている。

加藤は高校卒業後、東海大学へ進学。

同級生には礒貝洋光澤登正朗飯島寿久後藤太郎らがいた。

1つ下の学年には田坂和昭、1つ上には岡中勇人がいた。

タレント揃いの東海大学は4年連続で全日本大学サッカー選手権大会で決勝に進む。

加藤は東海大学の黄金期を支えた。

大学4年時には多くのオファーを受ける中、加藤は柏レイソルの前身である日立製作所本社サッカー部に入団する。

加藤望のプロ入り後

入団後2年間はリーグ戦数試合の出場に留まり、ノーゴールのシーズンが続いたが3年目にはブラジル代表のカレカが加入し、加藤自身のプレーの幅が広がりリーグ戦26試合に出場し、6得点を挙げる。

柏レイソルは優勝を果たしたセレッソ大阪と共に次年度のJリーグ昇格を果たした。

加藤は1995年3月18日清水エスパルス戦でJリーグデビューを果たし、第6節名古屋グランパスエイト戦で初ゴールをマーク。

柏はカレカの他にも、元ブラジル代表MFのバウディールや現役ブラジル代表FWミューレル、ヴェルディ川崎からFWベンチーニョを獲得するなど攻撃陣を補強したが、Jリーグ1年目のシーズンは14チーム中12位に沈んだ。

加藤はライバルが多い中、シーズンを通して活躍しこの年に日本代表候補に選出されている。

2年目のシーズンも27試合に出場し8ゴールをマーク。

3年目はベンチーニョとストイチコフの2トップを支えるトップ下のポジションで躍動。

4年目もリーグ戦34試合に出場し8ゴールをマークすると5年目に柏レイソル初のタイトルとなるナビスコ杯優勝を果たす。

北嶋秀朗や玉田圭司の良き見本となり、連続試合出場記録を続けた。

連続試合出場記録は2000年の2ndステージ第14節で途切れるが131試合連続出場を達成した。

しかしこの年以降、出場機会は徐々に減少し、スタメンで起用される機会が減っていく。

2004年にはリーグ戦出場が7試合に留まり、この年限りで戦力外通告を受ける。

現役続行を希望していた加藤望は既に34歳となったいたが、運動量と高い技術力は現在であり、多くのオファーがある中J2の湘南ベルマーレへの入団を選択した。

ベルマーレでは背番号24をつけ、加入1年目からリーグ戦41試合に出場し9得点を挙げる。

2007年、ベルマーレ3年目のシーズンでは38歳ながら47試合に出場し自身初となる二桁得点(10)を記録。

第51節のベガルタ仙台戦では3-2の勝利に貢献。加藤自身、2得点1アシストという得点全てに絡む活躍を見せた。

39歳を迎える2008年も現役を続け、三浦知良、森山泰行に次ぐJ2三番目の年長選手となったが、チームの心肺機能テストでは常に上位と、この年齢の選手とは思えない脅威的な運動量を誇っていた。

このシーズンもリーグ戦40試合に出場し5得点を挙げるもこの年限りで戦力外通告を受け、ベルマーレを退団。

2008年限りで現役を引退した。

加藤望の引退後と現在

加藤は引退後、2009年から湘南ベルマーレでコーチを務め、2013年からは産業能率大学サッカー部監督を4年間務めた。

2018年からは古巣である柏レイソルのヘッドコーチとなり、5月から11月までレイソルの監督を務めた。

2023年からはラインメール青森FCのヘッドコーチを務めている。

39歳での加藤の引退は、正直まだまだやれると思わせるものがあった。

全盛期に比較すると運動量やキックの精度は衰えてはいるものの、まだまだJリーグで活躍できるレベルの範囲での話だ。

30代後半で過酷なJ2リーグをレギュラーとして戦い抜くのは並大抵の努力や技術、才能では到底難しい。

まさに鉄人とは加藤望のことを指すのではないだろうか。

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