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カレカの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第323回】

1980年にブラジル代表に選出されると、独特のステップとテクニカルなシュートを得意とし、抜群の勝負強さを誇ったFW・カレカ。

1986年メキシコワールドカップでは、5ゴールを挙げ、得点王のリネカーに次ぐ得点ランキング2位となる活躍を見せた。

ブラジル代表のストライカーは、1993年に来日に、当時JFLの柏レイソルに加入すると、まだプロとしてのシステムも意識も根付いていなかった創世記のレイソルを、レジェンドとして支えた。

FWとして必要な要素を全て高いレベルで併せ持ったワールドクラスのストライカー・カレカに迫る。

カレカのJリーグ入り前


カレカは、1960年にブラジル・サンパウロに生まれた。

1977年シーズンに、サンパウロ州のグラニアFCとプロ契約を結び、デビューを飾る。

自ら点を取れるだけでなく、周囲を生かしたポストプレーにも長けていたカレカは、すぐにチームで頭角を現す。

1978年シーズンには、ブラジル全国選手権の優勝の立役者となった。まだ若く、才能溢れるカレカの元には様々なオファーが届いたが、ビッグクラブとはいえないグアラニでプレーを続ける。グアラニは、1979年、1980年とリーグ16位に低迷し、1981年は2部リーグの在籍となるが、カレカはチームに残留している。

1982年にはブラジル代表に初選出され、西ドイツ戦で代表デビューを飾った。

1983シーズンには、強豪・サンパウロFCに移籍。

サンパウロに移籍後、カレカの得点能力はますます磨きがかかり、得点を量産する。1986年シーズンには、全国選手権のグループリーグを無敗で勝ち上がり、第2フェーズでは苦戦したものの、決勝でグアラニを破り、見事にで優勝を果たすと共に、自らも25ゴールを挙げ得点王に輝いた。

1986年には、メキシコワールドカップの代表メンバーに選出。カレカにとって初めてのワールドカップとなったが、ジーコやジュリオ・セザールらとともに息の合ったプレーを見せ、グループリーグ突破に貢献。優勝を期待されるも、決勝トーナメントでは、準々決勝でプラティニ擁するフランスに激闘の末にPK戦で敗れている。

1987年シーズンの途中、イタリア・セリエAのSSCナポリへ移籍。

ナポリには、アルゼンチンの至宝・マラドーナが在籍しており、カレカは強力なコンビを組むことになる。カレカとマラドーナは非常に相性が良く、加入1年目はリーグ戦で13ゴールを挙げるだけでなく、マラドーナの多くのゴールをアシストした。

カレカの元には1988年シーズン途中に、ACミランから魅力的なオファーが届くも、カレカはマラドーナとのプレーを続ける為に入団を断っている。

1988-1989年シーズンは、19ゴールを挙げ、セレーナに次ぎセリエA得点ランキング2位となった。 リーグでの優勝は果たせなかったが、UEFAカップでは見事に優勝を果たし、カレカはヨーロッパに渡って初のタイトルを手にした。

1889ー1990年シーズンは、トップ下に君臨するマラドーナの前で、イタリア代表のカルネバーレと2トップを組み、ゴールを量産。見事にリーグ優勝を飾る。

カレカは、1990年イタリアワールドカップに2大会連続で出場。次世代のエースとして期待されていたロマーリオやベベットなども選出され、直前までは控えに回るも、大会本番では後に柏レイソルでもコンビを組むミューレルとともにスタメンの座を奪い、グループリーグを3連勝で突破する原動力となったが、決勝トーナメント1回戦でアルゼンチンに0-1で敗れている。

カレカはその後もナポリに残り、マラドーナと共にプレーを続ける。しかし、マラドーナは1990年から1991年にかけて、麻薬使用やマフィアとの関連が報道され、イタリアサッカー連盟から15ヵ月間の出場停止処分を受けた。相棒を失ったカレカだったが、1991-1992年シーズンは15ゴールを挙げ、ナポリの攻撃を牽引した。

1992-1993年シーズンも7ゴールを挙げるも、このシーズンをもってナポリを退団。 南米最強ストライカーと言われたカレカの去就が注目されたが、次に選んだチームは、日本のJFLに所属する柏レイソルだった。

カレカのJリーグ入り後

カレカが入団した1993年当時、柏レイソルはまだJリーグ入りが内定していなかった。

その年のJリーグカップ(現ルヴァンカップ)にてベスト4に進出すれば、レイソルのJリーグ入りが内定するという過酷な条件の中、Jリーグの10チームと、準会員であるベルマーレ平塚、ジュビロ磐田、そして柏レイソルの3チームが加わり13チームでタイトルが争われた。

カレカは柏レイソルの得点源として活躍し、サンフレッチェ広島戦、鹿島アントラーズ戦、ジェフ市原戦で得点を決めるも、惜しくもグループリーグ4位で決勝トーナメントには進めなかった。

ともにワールドカップで戦ったジーコや、リネカーリトバルスキーなどのビッグネームがJリーグで大きな注目を集める中、柏レイソルがJリーグに昇格できなかったことで、カレカの去就も注目を集めたが、カレカは柏レイソルに残留を決める。

カレカは1994年はJFLでプレーし、リーグ戦19得点を挙げる活躍を見せる。柏レイソルはJリーグ昇格を決め、この年のベストイレブンに選出されている。

Jリーグ昇格を決めた柏レイソルは、元ブラジル代表でカレカの相棒であるミューレルを獲得。

ワールドカップを盛り上げたブラジル代表ツートップが、柏レイソルで再びコンビを組むことになった。

カレカは、1995年3月29日第4節横浜フリューゲルス戦でJリーグデビューを飾ると、第6節名古屋グランパスエイト戦で初ゴールをマークした。

しかし、その後は相棒ミューレルの早期退団や、なかなか上向かないチーム事情、そしてカレカ自身の加齢からくる衰えや怪我もあり、満足のいく結果は得られなかった。

2ndステージは怪我で出遅れ、復帰した第5節のベルマーレ平塚戦、第6節の横浜マリノス戦と2試合連続ゴールを決めるも、波に乗り切れずリーグ戦30試合に出場し10得点に終わる。

1996年も柏レイソルと契約を結ぶも、怪我が癒えずリーグ戦5試合の出場に留まり、この年を持って柏レイソルを退団。

その後は、ブラジルに帰国し、サントス、下部リーグのカンピナス、サンジョゼでプレーし、1999年に現役を引退した。

カレカの引退後と現在

カレカは現役引退後、ブラジルで指導者や解説者として活躍。

2006年には再び来日し、ビーチサッカー、フットサル、11人制の三つのカテゴリーでフットボールアカデミーを軸に主に人材育成の部分で事業展開し世界各国リーグへの選手供給体制を整える、11人制のトップチームを持つクラブ型運営の確立を目指す沖縄の「レキオスFC」の技術顧問に就任。

レキオスFCはこの年、JFA主催の全国ビーチサッカー大会で初代王者に輝いている。

カレカは現在、ブラジルに帰国し、解説者として活躍している。

世界的プレーヤーであるカレカが、1994年にJリーグ入りを逃したJFL・柏レイソルに残留し、チームのために献身的にプレーしたことは、レイソルサポーターにとってだけでなく、Jリーグを愛する人にとっても忘れられない大きな思い出だろう。

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