流通経済大学サッカー部はプロサッカー選手を70名以上輩出している名門校であり、毎年のようにJリーガーを複数輩出し多い時には13名もの選手をプロへと送り出してきた。
そのなかで阿部吉朗は流通経済大学サッカー部創立初のJリーガーとなった。
身体の強さやゴールに対する嗅覚等、阿部吉朗にはストライカーとしての能力が兼ね揃えてあったが、阿部吉朗には何よりサッカーに対して真摯に向き合う誠実さがあった。
7チームを渡り歩き、14年間という歳月を送ったプロ生活は決して平坦な道ではなかった。
しかし、阿部吉朗は常にゴールを狙うという姿勢をみせ、数々の記憶に残るゴールを生み出してきた。
阿部吉朗のプロ入り前
愛媛県、大阪府で幼少期を過ごし、小学校3年生の時に茨城県つくば市に引っ越し、そこで兄と共にサッカーを始めた。
小学校では並木FCに所属し当初はセンターバックとしてプレーし、その後サイドバックとしてもプレー。
つくば市立並木中学校へ進学後はMFやFWでもプレーした。
「ナイター施設さえあれば良い」という理由で強豪校ではなく、地元の常総学院高等学校へ進学。
3年時には茨城県選抜として神奈川国体に出場した。この時はサイドバックとして登録されていた。
高校卒業後の1999年。茨城県の流通経済大学へ進学。
当時の流通経済大学サッカー部はまだ環境的にも恵まれておらずプロ選手を養成する状況にはなかった。
しかし寮が建設されたり、全寮制へと移行したり、練習環境が整っていく環境下の中で阿部は着実に力をつけていった。
阿部は大学4年時にチームのエースとなり、2部リーグ得点王、ベストイレブンにも選出された。
その後デンソーカップ・日韓定期戦では大学日本代表へと選出され、2得点を決めMVPを獲得した。
無名だった阿部は大学での4年間を経て、一躍大学ナンバーワンFWとして注目される選手となった。
2002年、関東大学選抜でのプレーがJリーグ・FC東京強化部の大熊清に目に留まり練習生として同クラブでの練習試合に出場した阿部は4得点を挙げる活躍を見せ内定を得ると、同年11月よりFC東京と正式契約を結び、クラブに合流。流経大出身者としては初のJリーガーとなった。
阿部吉朗のプロ入り後
プロ1年目のシーズンは背番号26をつけて臨み、デビュー戦となる天皇杯の対湘南ベルマーレ戦では早速2得点をあげる活躍を見せる。
2年目のシーズンはリーグ戦27試合に出場し6得点を挙げた。
3年目はFC東京の絶対的象徴であるアマラオの背番号11を引き継ぎ更なる飛躍を期待されたが慣れない左MFでの起用の多さやスーパーサブとしての出場が多くなりリーグ戦28試合出場4得点の記録に留まった。
翌年、阿部は大分トリニータへ移籍。しかしここでも本職のFWではなくMFでの起用が多くリーグ戦15試合に出場無得点に終わった。
次の年にはFC東京へ復帰。2シーズンプレーし2007年には柏レイソルへ加入した。
2008年には湘南ベルマーレへ移籍し自身初となるJ2でのプレーとなったが得点能力の高さと献身的な守備でチームに貢献。
2009年J2最終節の水戸戦では、0-2でリードされた状況から、同点ゴールと逆転ゴールの2得点を決めて湘南をJ1昇格に導き、2010年はチームで唯一リーグ戦全試合に出場し、チーム最多得点を挙げたものの湘南はJ2降格を喫した。
2012年からは3シーズン、ジュビロ磐田でプレー。チーム最年長選手として支えた。
2015年は松本山雅FCからのオファーを受け移籍。阿部はリーグ戦24試合に出場、5得点の活躍を見せるも松本山雅はJ2に降格。
阿部吉朗はこの年限りでユニフォームを脱ぐことになった。
阿部吉朗の引退後と現在
阿部は引退後、Blosson株式会社を設立。
自ら代表となり、FIFA認定の人工芝を採用したコートをもつ自社でサッカースクールの開設や指導に忙しい日々を送る。
Blosson株式会社のホームページに掲載されている阿部の言葉で印象的なメッセージがあった。
「誰がどこで花を咲かせるかは、誰にもわかりません。大切なのは花の部分ではなく、地面に隠れているものです。足元をしっかりみる。そういう指導をしていきたいと思っています。」
阿部自身、大学時代は整っていない環境下で腐らずに練習を続けた。
誰も期待していない状況の中、阿部は何もない場所に芽を生やし、その芽はやがて大きな花となって咲き続けた。
地面に隠れた花に水をやり、光を当てる。今度は咲かせる番だ。
茨城県つくば市を舞台に、阿部の挑戦が始まる。