俊足を生かしたドリブル突破を武器に活躍した左のスペシャリスト・平岡直起。
入団当初はFWとして活躍するも、その後は左ハーフ、左サイドバックとしてガンバの左サイドを担った。
身長173センチながら空中戦にも強く、セットプレーでは大きな武器となった。
現役版根に所属したFC岐阜では、ベテランとして東海リーグからJリーグ昇格までをピッチ内外で支えた。
平岡直起のJリーグ入り前
3歳上の兄の影響でサッカーを始め、小学校2年生の時に地元の少年団に入団した。
幼い頃から俊足であったため、庭代台中学校入学後は陸上部に入り、走り幅跳びの選手として活躍した。
しかしサッカー部の監督に誘われ、陸上部を退部しサッカー部に入部した。
サッカー部では背番号10を背負い、攻撃的な選手として活躍した。中学時代はジュニアユースの合宿に呼ばれるほど注目を集めた。
中学卒業後、初芝高等学校へ推薦入学。
高校1年次からレギュラーとして活躍。
高校3年次にはインターハイに出場し、大阪府選抜に選出され、国体にも出場した。
高校卒業後の1992年、入団テストを受け、ガンバ大阪に入団する。
平岡直起のJリーグ入り後
入団後2年間はサテライトでの調整が続いたが、1994年6月1日第18節鹿島アントラーズ戦で、森岡茂と交代でJリーグ初出場を飾った。
その後も左のウイングとして主に途中出場でリーグ戦11試合に出場した。
1995年は開幕戦の名古屋グランパスエイト戦からベンチ入りを果たす。
FWとしてプロタソフや山口敏弘とコンビを組み活躍。第11節横浜フリューゲルス戦ではJリーグ初ゴールを決め、勝利に貢献した。
その後もFWや左アウトサイドとして活躍し、キャリアハイとなるリーグ戦34試合で5ゴールをマークした。
1996年は左サイドバックにコンバートされ、開幕戦の横浜マリノス戦から出場を果たす。
右サイドバックの今藤幸治とともにスピード溢れる両翼として活躍した。
1997年からは固定背番号制となったことを受け、背番号7を背負う。
左のスペシャリストとして活躍。サイドバック、ウイング、ハーフと、システムによってポジションは異なったが不動のレギュラーとして君臨した。
2000年は新井場徹の台頭により出場機会が減少。シーズン途中に名古屋グランパスへ移籍。
2001年は開幕戦の浦和レッズ戦でゴールを奪い、2-0での勝利の貢献するなどスタートから好調。
しかしシーズン途中からベンチ入りを外れる機会が増えるようになった。
2003年には清水エスパルスへ移籍。
4バックの際は左サイドバック、3バックの際は左ハーフとしてプレー。
2年間の在籍でリーグ戦19試合に出場し1ゴールを決めた。
2005年にはFC岐阜へ移籍。
元名古屋の森山泰行らとともに活躍し、東海リーグ1部昇格に貢献した。
2007年はリーグ戦25試合に出場。シーズンを通して主力として活躍。
FC岐阜のJ2昇格を見届け、16年間の現役生活に終止符を打った。
平岡直起の引退後と現在
平岡は現役引退後、2008年にMIOびわこ草津で指導者としてのキャリアをスタートさせた。
その後は名古屋市内で加圧・ヨガ・エステの複合スタジオを経営しながら、スクールでの指導を行っている。