正確なプレースキックと鋭い読みを武器に、浦和レッズの中盤を支えた男、広瀬治。
広瀬はチームの精神的柱として君臨。
長短のパスでビルドアップを担当し、その確かな技術で多くのチャンスを演出した。
また広瀬はフリーキックの名手としても知られ、日本リーグ時代から数々の名ゴールを決めてきた。
浦和レッズの初代8番、広瀬治に迫る。
広瀬治のプロ入り前
小学校3年生の時に与野市本町サッカー少年団でサッカーを始める。
5年生の時にクラブチームの三菱養和SCへ加入。
中学は地元の与野西中学校へ進学したが中学ではサッカー部に所属せず、引き続き三菱養和でサッカーを学んだ。
高校進学の際には、全国高校サッカー選手権の常連である東京都の帝京高等学校へ進学。
1年次からレギュラーの座を掴むと、1983年の高校選手権でベスト4進出に貢献した。
3年次の全国高校サッカー選手権では膝の故障もあって万全のコンディションではなかったが、3度目の全国高校選手権制覇に貢献した。
決勝では大榎克己、長谷川健太、堀池巧、武田修宏などを擁する清水東高校を破っての全国制覇だった。
高校卒業後の1984年4月に三菱重工業へ入社。
広瀬は日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部(現浦和レッドダイヤモンズ)に入部した。
加入初年度から出場機会を掴むと帝京高校の先輩である名取篤らと共に三菱の中盤を支え、2部リーグへ降格となった1989-90シーズンには25アシストを記録しJSL2部のアシスト王に輝く活躍を見せた。
そして1992年にJリーグ創設に伴い浦和レッドダイヤモンズが誕生すると名取と共にチーム最古参の選手として契約を結んだ。
広瀬治のプロ入り後
Jリーグ開幕年は26試合に出場し、2得点を挙げる。
広瀬は高い技術と経験でチームを支えた。
1995年にホルガー・オジェック氏が監督に就任すると広瀬はボランチへコンバートされる。
1995年の1stステージの大宮サッカー場で、横浜マリノス戦ではVゴールを決めるなど活躍を見せ、ベテランながらシーズンを通して49試合に出場した。
翌1996年にはギド・ブッフバルトを負傷で欠いたこともありリベロへコンバートされる。
ブッフバルトの復帰後もこのポジションを務め、最後尾からチームを統率した。
その後も広瀬はレギュラーとして活躍を続け、1998年に指揮を執った原博実監督も広瀬の技術を評価し、ゲームの途中から出場し悪い流れを変えたり、落ち着きを与える役割を担った。
広瀬は前身の三菱時代を含め17シーズンにわたって同クラブの中盤を支え続け、2000年に引退をした。
広瀬治の引退後と現在
広瀬は引退後、指導者に転身。
浦和レッズのユースコーチやトップチームのコーチを務めた。
1998年に加入した小野伸二は、浦和在籍時代、広瀬から居残り練習で連日のようにフリーキックのコツを教わったという。
前身の三菱重工時代から背番号8を背負う生え抜きの広瀬は、小野伸二の才能を認め、2年目を迎える際に背番号8を受け渡した。
浦和レッズの背番号8はその後、小野伸二、阿部敏之、山瀬功治、三都主アレサンドロ、柏木陽介、ラファエルシルバと続いていく。
その誰もが浦和レッズの攻撃に欠かせないキーマンとなった。
浦和の背番号「8」は引き継がれていく。
確かな技術と伝統と共に。