縦への鋭い突破と左足の強力なシュートが持ち味の神野卓哉。
ディフェンスの背後を取り裏へ駆け抜ける脚力を武器にマリノスなどで活躍した。
Jリーグ開幕前の1992年にはオフト監督により日本代表に抜擢された。
1999年には多くの外国人ストライカーとの争いを制し、初代J2得点王に輝いた。
快速FW、神野卓哉に迫る。
神野卓哉のプロ入り前
草加市立稲荷小学校の時にサッカーを始め、住吉スポーツ少年団に所属した。
草加市立松江中学校卒業後、サッカーの名門である修徳高校へ進学。修徳高校には神野の2学年上に元日本代表の北澤豪がいた。
高校2年時に東京都選抜に選出され沖縄国体ベスト4入りに貢献。
3年時にはインターハイに出場しベスト8に入るなど活躍した。
高校卒業後、日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に加入。
しかし日産FW陣にはレナト、長谷川健太、水沼貴史、ロペス(後の呂比須ワグナー)がおりルーキーイヤーは出場機会がなかった。
しかし1990-91シーズンにオスカー監督の抜擢によりリーグデビューを果たすと、武器である快速を持ち味に大切な局面で結果を出すスーパーサブとして活躍した。
1991年にバルセロナ五輪予選代表に選ばれ、翌1992年のアジア最終予選に出場した。
1992年にはオフト監督によりアメリカワールドカップ出場を目指す日本代表に選出。
AFCアジアカップ1992でベンチ入りするが、代表には高木琢也、三浦知良、武田修宏、中山雅史、福田正博とFWにタレントが揃っており、神野の出場は無かった。
日本は決勝でサウジアラビアを高木琢也のゴールで1-0で下し初優勝を飾っている。
その後、日産はJリーグ入りの為に横浜マリノスに改称し神野もプロ契約を結んだ。
神野卓哉のプロ入り後
Jリーグ開幕試合のヴェルディ川崎戦では出番がなかったものの、続く第2節のガンバ大阪戦でJリーグデビューを果たす。
マリノスにはラモン・ディアスという絶対的ストライカーがいた為、スタメン出場は少なかったが神野の快速は攻撃の流れを変えるアクセントには十分であり、Jリーグ初年度は19試合に出場し2得点を挙げた。
その後もマリノスはディアス、メディナベージョ、ビスコンティなどアルゼンチンストライカーを主軸としたフォーメーションを敷くが神野は本来のFWだけでなくサイドMFとしてもプレーし一定の出場機会を得た。
1996年には当時JFLのヴィッセル神戸へ移籍。
バクスター監督の元、神戸では背番号11を与えられたが、サイドMFとしての出場が殆どだった。
それでも加入初年度の1996年には30試合に出場し10得点をマーク。
永島昭浩や和田昌裕らとともにヴィッセル神戸のJリーグ昇格に貢献した。
1999年にはJ2の大分トリニータへ移籍。
大分では元韓国代表MF崔大植とのコンビで得点を量産する。
神野は同じ大分のウィルや川崎フロンターレのツゥットらを抑え19得点で初代J2リーグ得点王に輝いた。
この活躍を受け翌年にはJ1のFC東京へ移籍。
アマラオや同じくFC東京に移籍してきたツゥットと2トップを組み、18試合に出場して4得点を挙げた。
しかしFC東京はアマラオとツゥットの2トップが定着し、終盤にはスタメン出場が減少した神野は1年でFC東京を退団し大分トリニータへ復帰する。
その後、横浜FCへ移籍し2002年には40試合に出場し8得点を挙げたが、翌年はプロ初となるシーズン通してノーゴールに終わりこの年限りで引退を表明した。
神野卓哉の引退後と現在
神野は引退後、2004年から2009年まで横浜FCの強化担当を務めた。
その後、ガイナーレ鳥取、アビスパ福岡、AC長野パルセイロの強化担当や統括を歴任し2017年からはニッパツ横浜FCシーガールズの監督に就任している。
神野は後年のインタビューで神戸時代にバクスター監督から指導を受けた経験が大きいと語っている。
サイドハーフとしてプレーする機会を与えてもらった事で、逆にプレーヤーとしての視野が広がり後年の大分トリニータでの得点王獲得など選手としてのプレーの幅が広がったと語っている。
その経験が現場で指揮を執る今となっても現れているのだという。
かつてUEFA(ヨーロッパサッカー連盟)のテクニカルダイレクターを務めたアンディ・ロクスブルグ氏は言う。
「指導者は選手の未来に触れている。」
技術や戦術だけでなく、プレーヤーとして成長できる過程を築くきっかけを与えてあげられる人こそが名将なのだと感じる。