守備の要として、長らく名古屋グランパスの中心選手として活躍した飯島寿久。
オーバーラップのタイミングが絶妙で主に右サイドバックとして起用されたが、身体能力も高い為、センターバックとしても出場機会が多かった飯島。
1対1にも強く、徹底したマンマークでボールを奪うと前線へ大きく正確なロングフィードで展開していくのが持ち味だ。
飯島寿久のプロ入り前
小学校からサッカーを始め、町田市の選抜チームであるFC町田では1981年の第5回大会で全国大会初優勝を飾った。
全国優勝の常連校である清水FCを準決勝で破り、決勝では古河少年団(茨城県)との関東対決を制しての初優勝だった。
飯島は決勝でチームを優勝に導く逆転弾を決めている。
中学校を卒業後、飯島はサッカーの強豪校である帝京高校へ進学。
帝京高校の同級生には礒貝洋光、森山泰行、本田泰人らがおり、圧倒的な攻撃力で帝京史上最強と謳われた。
高校3年次には第66回全国高校サッカー選手権に出場。
3回戦で澤登正朗擁する強豪・東海大一校と対戦したがPK戦の末、破れた。
飯島は高校を卒業後、東海大学へ進学。同級生には礒貝洋光、澤登正朗、加藤望、後藤太郎らがおり、東海大学は4年連続で全日本大学サッカー選手権大会で決勝に進むなど飯島は東海大学の黄金期を支えた。
大学4年次にはバルセロナオリンピックアジア最終予選の日本代表に選出。
バルセロナオリンピックから出場者は23歳以下に限定された。
選出されたメンバーは大学生が主体となったが、飯島の他にもGK下川健一、DF相馬直樹、小村徳男、名塚善寛、MF澤登正朗、永井秀樹、藤田俊哉、名波浩、名良橋晃、FW三浦文丈、藤吉信次、山口敏弘、神野卓哉など後のJリーガーになる選手が多く選出された。
1992年、大学を卒業した飯島はJリーグ名古屋グランパスエイトへ入団する。
飯島寿久のプロ入り後
飯島はJリーグ開幕初年度からレギュラーとして活躍。
Jリーグ開幕戦にも出場したが、鹿島アントラーズに0-5で敗戦、名古屋グランパスエイトは年間順位が10チーム中、9位に沈むなど精彩を欠いた。
飯島は接触プレーによる左腕の骨折があったものの戦線復帰後は名古屋グランパスエイトの不動の右サイドバックとして定着。
名古屋の監督は毎年のように目まぐるしく代わったが飯島は変わらず評価され続けた。
1995年にはベンゲル監督の元、天皇杯を制覇。
1996年にはトーレス、大岩剛、小川誠一、飯島の4人で形成された名古屋DF陣が安定し、リーグ戦年間順位2位となる。
しかし1999年、ヴェルディ川崎から右サイドバックのスペシャリストである石川康が移籍。飯島の出番は激減し、ベンチを温める日々が続いた。
2001年にはJ2の川崎フロンターレ、2002年にはJ2のアビスパ福岡でプレー。
フロンターレやアビスパではサイドバックの他にもセンターバックをこなし、経験豊富なベテランとしてチームを支えた。
そして2002年のアビスパ福岡でのシーズンをもって飯島寿久はユニフォームを脱いだ。
飯島寿久の引退後と現在
飯島は引退後、2003年からの10年間、古巣である名古屋グランパスの育成コーチ、トップチームコーチを務めた。
2009年にはJFA公認S級ライセンスを取得した。
現在は愛知県長久手市で夫人とカフェを経営。その他にも中部第一高校のコーチやDAZNの解説、JFAこころのプロジェクトの夢先生など活躍は多岐にわたる。