日本サッカー界を代表する背番号「10」といえば、ラモス瑠偉を思い浮かべる人も多いだろう。

ブラジル・リオデジャネイロから日本へ渡り、読売クラブの中心選手として長く活躍。

日本国籍を取得して日本代表にも選出され、1992年のアジアカップでは日本の初優勝に貢献した。

Jリーグ開幕後はヴェルディ川崎の黄金時代を支え、1993年、1994年のリーグ連覇を経験。

1994年のチャンピオンシップでは、左足に大きな痛みを抱えながらもピッチに立ち、今も語り継がれる芸術的なループシュートを決めた。

日本サッカーがまだプロリーグを持っていなかった時代から、日本代表として、そしてJリーグのスターとして日本サッカーを支え続けた男。

今回はそんなラモス瑠偉の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫っていく。

ラモス瑠偉のJリーグ入り前

ラモス瑠偉は1957年2月9日、ブラジルのリオデジャネイロに生まれた。

幼少期からサッカーに親しみ、ブラジルでサッカー選手を目指していた。

高校卒業後の1975年にはブラジルのサージFCに所属。

しかし、ラモスの人生を大きく変える出来事が起こる。

1977年、読売クラブでプレーしていたジョージ与那城の存在をきっかけに、日本へ渡ることになった。

当時の日本は、現在のようなプロサッカーリーグが存在していなかった。

日本サッカーリーグ、通称JSLが国内最高峰の舞台。

そんな時代に、ブラジルからやって来た若者が日本のサッカー界へ飛び込んだ。

読売クラブに加入したラモスは、いきなり順風満帆だったわけではない。

来日直後には出場停止処分を受けることになる。

それでも腐ることなく練習を続けた。

そして1978年。

復帰したラモスは、読売クラブの中心選手として活躍。

1979年には得点王とアシスト王の2冠を獲得する。

さらに1983年にも得点王を獲得。

読売クラブの黄金時代を築く中心選手となっていった。

1983年には読売クラブがJSLで初優勝。

翌1984年もリーグを制し、ラモスはチームの連覇に大きく貢献した。

その後も読売クラブは強さを発揮。

ラモスはJSL時代に通算5度のリーグ優勝を経験する。

JSL1部では1978年から1992年まで210試合に出場して69得点。

長年にわたって日本サッカー界のトップでプレーし続けた。

しかし、そのキャリアには大きな危機もあった。

1981年、ラモスはオートバイ事故に遭い、左足を負傷。

一時は選手生命も危ぶまれるほどの大怪我だった。

1982年は復帰したものの、リーグ戦では1得点に終わる。

それでもラモスは翌1983年に完全復活。

10得点を挙げ、再び得点王に輝いた。

大怪我を乗り越え、再び日本サッカー界のトップへ戻ってきたのである。

そして1989年。

ラモスは日本国籍を取得する。

翌1990年には日本代表に初選出された。

ブラジルから日本へ渡ってきた青年は、13年の歳月を経て日本代表のユニフォームを着ることになった。

ラモス瑠偉のJリーグ入り後

1992年。

Jリーグ開幕を翌年に控え、ラモスは読売ヴェルディの中心選手としてプレーする。

同年のJリーグカップでは優勝。

そして1993年。

ついに日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグが開幕する。

ヴェルディ川崎には、ラモスのほか三浦知良、柱谷哲二、北澤豪、ペレイラら、日本サッカーを代表する選手たちが揃っていた。

まさにスター軍団だった。

ラモスはそのチームの背番号10。

卓越した技術とパスセンスで攻撃を組み立て、チームの中心としてプレーした。

1993年のJリーグでは30試合に出場して4得点。

ヴェルディ川崎は初代Jリーグ王者に輝いた。

ラモス自身もJリーグベストイレブンに選出される。

翌1994年もヴェルディ川崎はリーグ優勝。

ラモスも2年連続でJリーグベストイレブンに選ばれた。

しかし、ラモスにとって1994年はクラブだけではなく、日本代表にとっても非常に大きな年だった。

1994年アメリカワールドカップを目指す日本代表。

そのアジア最終予選がカタールのドーハで行われた。

ラモスは日本代表の中心選手として戦った。

しかし、最後のイラク戦。

勝てばワールドカップ出場を決められる状況で、日本は終了間際に同点ゴールを許す。

2-2の引き分け。

日本はワールドカップ出場を逃した。

いわゆる「ドーハの悲劇」である。

ラモスにとっても、日本サッカーにとっても、忘れることのできない試合となった。

それでもラモスは戦い続けた。

同じ1994年。

ヴェルディ川崎はJリーグ連覇をかけてサンフレッチェ広島とのチャンピオンシップに臨む。

ラモスはシーズン終盤に左足を負傷。

チャンピオンシップ第1戦でも痛みを抱えながら出場した。

そして迎えた第2戦。

37歳のラモスは、満身創痍の状態でピッチに立った。

試合終盤。

ペナルティエリア付近でボールを受けたラモスは、ゴールキーパーの位置を見て、ふわりとボールを浮かせる。

ボールはGKの頭上を越えてゴールへ。

伝説となったループシュートだった。

ヴェルディ川崎はこの試合に勝利し、Jリーグ連覇を達成。

ラモスは最も苦しい場面でチームを救うゴールを決めた。

1995年もヴェルディ川崎でプレー。

1996年には京都パープルサンガへ移籍する。

京都では2シーズンにわたってプレー。

そして1997年、再びヴェルディ川崎へ戻った。

1998年。

41歳を迎えたラモスは現役を引退する。

1977年に日本へやって来てから約21年。

日本サッカーがまだプロ化されていなかった時代から、Jリーグという新しい時代までを第一線で戦い続けた。

ラモス瑠偉のプレースタイル

ラモスの最大の魅力は、卓越したボールコントロールとパスセンスだった。

中盤でボールを受けると、周囲の状況を見ながら正確なパスを送り出す。

味方がどこへ走り出すのか。

相手の守備がどこへ動くのか。

それを瞬時に判断し、相手の予想を上回るプレーを選択する。

特にラモスを象徴するのが、柔らかいタッチから繰り出されるスルーパスだった。

足元の技術も高く、狭いスペースでもボールを失わない。

また、直接FKやシュートの技術にも優れていた。

単なるテクニシャンではない。

ラモスには、チームを勝たせるための強烈なリーダーシップがあった。

試合中には味方に激しく要求することもあり、勝利への執念は人一倍強かった。

その存在感は技術だけでは説明できない。

ラモスがピッチにいることで、チーム全体の雰囲気が変わる。

それこそが、ラモス瑠偉という選手の大きな特徴だった。

ラモス瑠偉の引退後と現在

1998年に現役を引退したラモスは、その後も日本サッカー界で活動を続ける。

2005年にはビーチサッカー日本代表監督に就任。

2006年から2007年には東京ヴェルディ1969の監督を務めた。

2007年にはチームをJ1復帰へ導いている。

その後はビーチサッカー日本代表監督、柏レイソルコーチ、FC岐阜監督などを歴任。

選手としてだけではなく、指導者としても日本サッカーに貢献してきた。

2018年には第15回日本サッカー殿堂入り。

日本サッカー界への長年の功績が認められた。

ラモスはブラジルで生まれた。

しかし、日本へ渡ってからの人生の大半を日本サッカーのために捧げた。

日本代表では国際Aマッチ32試合に出場して1得点。

1992年には日本が初優勝したアジアカップのメンバーとして戦った。

そして1994年には「ドーハの悲劇」を経験した。

クラブでは読売クラブからヴェルディ川崎の黄金時代を支えた。

JSL、Jリーグを通じて数々のタイトルを獲得し、背番号10として日本サッカーの歴史に名前を残した。

しかし、ラモス瑠偉を語るうえで忘れてはいけないのは、タイトルや数字だけではない。

日本に来たばかりの頃には出場停止処分を受けた。

1981年には大怪我を負い、選手生命の危機にも直面した。

それでも復活した。

日本国籍を取得し、日本代表になった。

ワールドカップ出場をあと一歩のところで逃した。

そして37歳になっても、怪我を抱えながらチームのためにピッチへ立った。

1994年チャンピオンシップのループシュートは、その象徴だった。

動けない。

走れない。

それでも、ここ一番では仕事をする。

ラモス瑠偉には、そんな勝負師としての強さがあった。

ブラジルから日本へ渡ってきた一人のサッカー選手は、やがて日本サッカーの象徴と呼ばれるまでになった。

日本サッカーがまだプロ化されていなかった時代からJリーグの黄金期までを知る男。

技術。

情熱。

リーダーシップ。

そして何より、勝利への執念。

ラモス瑠偉がピッチに残したものは、単なる記録やタイトルだけではない。

「日本のために戦う」ということを、プレーで示し続けた。

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