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鋤柄昌宏の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第346回】

アートネイチャーのCMで一躍、時の人となった鋤柄昌宏。

Jリーグ創世記にはCMの影響もあり、知名度が高くバラエティ番組でも活躍した。

タレント揃いのヴェルディ川崎に所属していたため、Jリーグでは出場機会に恵まれなかったが、ドリブル、パス、シュートとFWとしての基本スキルはどれもハイレベルであり、1988年のアジアカップでは 井原正巳、中山雅史らとともに日本代表Bとしてプレーした。

身長は172センチと小柄だったが、ペナルティエリア内での得点感覚に優れ、左足で繰り出される正確なシュートに定評があった。

引退後は福島県の聖光学院高等学校の監督を務めるなど、指導者としても活動した。

鋤柄昌宏のプロ入り前

鋤柄は1966年に東京都に生まれた。

小学校でサッカーを始め、高校は名門の帝京高校へ進学。
同期に岩井厚裕(横浜フリューゲルス、アビスパ福岡など)、1学年上に前田治(横浜フリューゲルス)、広瀬治(浦和レッズ)がいた。

帝京在学中は2度の選手権優勝を達成。3年次に挑んだ第63回大会では背番号10を背負い、帝京の攻撃を牽引。決勝では島原商業と激闘を演じ、両校同時優勝を達成した。

帝京高校卒業後は筑波大学へ進学。1学年上に長谷川健太田口禎則、1学年下に影山雅永、井原正巳、中山雅史、森山佳郎らがいた。

筑波大学在学中の1988年、AFCアジアカップに大学生を中心に構成された日本代表に選出。
予選初戦でクウェートに0-1で敗れるものの、地元のマレーシアには1-0で勝利し決勝大会へ進出。
強豪イランに0-0で引き分けたものの、1次リーグ4試合で無得点6失点に終わり、3敗1分で日本は最下位で敗退した。

鋤柄は大学卒業後の1988年、JSLの強豪である読売クラブに入団する。

鋤柄昌宏のプロ入り後

1989-1990シーズンはリーグ戦で7試合に出場するも無得点に終わった。
この時の読売には武田修宏戸塚哲也、バウテル、ラモス瑠偉がおり、鋤柄にはチャンスはほとんど回ってこなかった。

1992、読売クラブはヴェルディ川崎としてJリーグに参戦。鋤柄はこの年開催されたヤマザキナビスコカップの鹿島アントラーズ戦でベンチ入りし、後半から永井秀樹と交代して出場するも3-4で試合に敗れている。

1993年、Jリーグが開幕。鋤柄はヴェルディ川崎でプレーすることを選択するが、リーグ戦には三浦知良、武田修宏が起用されたため、ベンチ入りもできなかった。

同年のヤマザキナビスコカップ のFWには阿部良則藤吉信次の若手が起用され、鋤柄はベンチスタートだったが9月25日のサンフレッチェ戦で藤吉信次と交代で出場。
この試合はPK戦までもつれたが、4人目のキッカーとして登場し見事にゴールを決め、勝利に貢献した。

その後も柏レイソル、ベルマーレ平塚に交代出場するが結果は残せず、この年もノーゴールに終わった。

またこの頃、鋤柄はアートネイチャーのCMに起用される。CMソングである河島英五が歌った「男はオオカミ」とともに知名度を上げ、とんねるずの番組にも出演、コロコロコミックにも登場するなど、人気チームであるヴェルディ川崎の選手として全国的な人気を得た。

1994年、鋤柄は浦和レッズへ移籍。

9月17日のNICOSシリーズ 第11節ヴェルディ川崎戦でベンチ入りすると、後半に杉山弘一と代わってJリーグデビューを飾る。

しかし試合は1-3で敗れ、鋤柄にとって最初で最後のJリーグ出場となった。

1995年、JFLに在籍していた福島FCへ入団。

経験の浅いチームにとって、貴重なプロ経験者の鋤柄はチームの主力となり活躍するも加入3年目のシーズンにチームは解散。
鋤柄は同じ福島の2部チームであるFCプリメーロへ加入するもこの年で引退する。

鋤柄昌宏の引退後と現在

鋤柄は引退後、教師として福島県の聖光学院高等学校に勤務。

同校のサッカー部監督して多くの生徒を指導した。
教え子にサンフレッチェ広島などで活躍した茂木弘人らがいる。

J当時選手権2連覇を達成した帝京の背番号10を背負うほどの実力者だった鋤柄。プロではタレント集団の層の厚さに埋もれてしまった印象が強いが、当時の高校サッカーファンとしてはもう少しJリーグでの活躍が見たかったに違いない。

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