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田口禎則の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第188回】

田口禎則はハードマークと空中戦の強さが持ち味のセンターバックだ。

浦和レッズでは元ドイツ代表のブッフバルトと元フランス代表のボリと堅固な3バックを形成。

DFながらもセットプレー時の攻め上がりから放つ高い打点での田口のヘディングシュートは相手チームにとって驚異となった。

またシーズン中に骨盤を亀裂骨折しながらも出場を続ける程、タフな身体の持ち主でもある。

しかし一方で日本サッカーリーグ時代は審判への暴力行為で1年間の出場停止、1995年にはサポーターへの暴力行為で4ヶ月の自宅謹慎となるなど気性の荒さが目立った選手でもある。

ストロングスタイルのセンターバック、田口禎則に迫る。

田口禎則のプロ入り前


田口は1965年に埼玉県浦和市(現さいたま市浦和区)に生まれた。

小学校の時に高砂サッカー少年団に在籍しサッカーを始める。子供の頃から体格に恵まれていた田口は攻撃の選手としてプレー。

浦和市立岸中学校から浦和市立南高等学校(後のさいたま市立浦和南高等学校)へ進学後はFWとしてプレー。1学年上にはFC東京の初代監督となる大熊清がいた。

田口が2年時の全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト8に進出。田口は大会優秀選手に選出されるなどチームの躍進に貢献した。

高校卒業後は筑波大学へ進学。

大学時代にFWからDFへコンバートされ関東大学リーグ連覇に貢献。

大学4年時には1学年下の井原正巳や中山雅史と共に日本B代表に選ばれAFCアジアカップ1988予選に出場した。

大学卒業後、全日本空輸に入社。日本サッカーリーグの全日空サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)でプレーする。

全日空では加入1年目から出場の機会を掴み、リーグ戦20試合に出場するなど定位置を確保する。

タイトなマークとハードタックルを武器に評価を高め、1991年には日本代表へ選出。

1991年6月9日 対トッテナム・ホットスパー(イングランド)戦で日本代表デビューを果たした。

しかし同年10月16日に行われたコニカカップで審判への暴行事件を起こし1年間の出場停止処分を受ける。後に7ヶ月に処分は軽減されるがこれは1978年に起こしたラモス瑠偉の乱闘騒ぎによる1年間の出場停止に次ぐ長さとなった。

1993年、Jリーグ開幕前に長身のセンターバックを探していたサンフレッチェ広島からオファーを受け移籍する。

田口禎則のプロ入り後

開幕前のキャンプで故障し出遅れたが1993年6月12日の鹿島アントラーズ戦でJリーグデビューを果たす。

同年7月7日のガンバ大阪戦でGK本並健治と激しく接触。田口の足が本並の腎臓を破裂させ本並は全治6ヶ月の重傷を負ってしまった。

このシーズンはリーグ戦6試合の出場に留まり、翌年に浦和レッズへ移籍。

しかし開幕戦のマリノスとの一戦でマークについたディアスを背後から押してしまい退場処分を受け、復帰試合の第3節ジェフ市原戦では前半で2枚の警告を受け退場。その後2試合の出場停止追加処分となった。

その後も3試合の出場停止を受けるなど、ハードプレーが持ち味の田口にとっては辛い1年となった。

1995年にホルガー・オジェックが浦和の監督に就任。オジェックは身体能力の高さが故に、身体を張ってDFをする田口の意識改革に着手。

徹底したポジショニングとカバーリングの意識を植え付け、ファウルを受ける回数を劇的に減らす事に成功した。

田口は3バックの一角を担い、堅守に貢献。攻撃でも4得点を挙げるなど活躍した。

しかし同年9月23日の名古屋グランパスエイト戦後にサポーターへの暴行事件を引き起こす。

試合後に浦和市内の焼肉店でサポーター男性から自身のプレーについて批判された事に対して不満を抱き全治数日間の怪我を負わせたのだ。

この事が明るみに出て田口は4ヶ月の自宅謹慎処分を受けてしまう。

謹慎処分が解除された1996年、開幕戦から先発出場を果たす。

元フランス代表のボリ、元ドイツ代表のブッフバルトと堅固な守備陣を形成した。

しかし1997年に怪我でシーズンを棒に振る。1998年10月のアビスパ福岡戦約2年振りに途中交代で復帰するが、この試合で2枚の警告を受けて退場。

結果的にこの試合が田口にとって現役最後の試合となった。

田口禎則の引退後と現在

田口は引退後の1999年に政治家に転身し、浦和市議会議員や埼玉県議会委員を務めた。

2001年から、さいたまレイナスFC(現、浦和レッドダイヤモンズ・レディース)で女子サッカーの監督に就任。

その後、なでしこリーグ実行委員会委員長と専務理事を務めた。

その傍ら、焼肉店やフットサル場の経営など実業家としても活動している。

田口は現役時代、上述のトラブルのインパクトが強いが強靭な肉体と高い身体能力が売りのセンターバックとして屈強な外国人とも対等に渡り合える数少ない日本人DFだった。

ブッフバルト、ボリ、田口禎則が並んだDFラインは強烈で失点を1996年のJリーグ最少に抑えるなど結果を残している。

この3バックは相手チームにとって見た目も含めて驚異であったに違いない。

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