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越後和男の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第69回】

ジェフ市原やブランメル仙台で活躍した越後和男。

攻撃的MFやFWとしてプレーし、攻撃にアクセントをつけられる貴重なベテランとしてチームを支えた。

越後は日本代表にも選ばれ、ソウル五輪予選など国際Aマッチ6試合に出場。

ジェフではリトバルスキーやフランタ、江尻篤彦らと中盤を支えFWの城彰二やオッツェに繋げるパイプ役として活躍。

仙台では経験豊富な貴重なベテランとして若いチームを牽引した。

中盤の仕事人、越後和男に迫る。

越後和男のプロ入り前


越後は1965年に三重県三重郡に生まれた。

幼少期からサッカーを始め、高校は三重県立四日市中央工業高校へ進学。

四日市中央のエースとして活躍して、高校2年次に出場した第61回選手権では1回戦で敗れるも越後は優秀選手に選ばれる活躍を見せた。

高校3年次に出場した第62回選手権では準優勝で清水東高校に敗れるもチームの全国ベスト4入りに貢献。

清水東高校には、堀池巧大榎克己長谷川健太武田修宏など後の日本代表となる選手が数多く在籍していた。(武田修宏はこの大会で得点王を獲得)

越後は1984年に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業サッカー部(現 ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入部。

1年目はリーグ戦4試合の出場に留まるも、2年目の1985年シーズンに9年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献し、新人王を受賞した。

この活躍により越後は日本代表に選出。

1987年のソウル五輪アジア予選を始め国際Aマッチ6試合に出場した。

奥寺康彦や松木安太郎、加藤久水沼貴史、原博実などを擁する日本代表の中で越後は若手有望株として期待された。

1987年9月18日、国立競技場で開催されたオリンピック東アジア最終予選では代表初ゴールを記録。

この試合は東京国立で開催しているのに関わらず観衆6000人程の中で行われるなどまだ日本サッカーへの大衆の関心が低いことが分かる。

越後はその後も古河電工でプレーを続け、1992年Jリーグ参入の為、ジェフユナイテッド市原に改名した後もチームに在籍した。

越後和男のプロ入り後

1993年、越後はリーグ戦22試合に出場。

1994年は33試合に出場し7得点を挙げるなど、年齢はベテランの域に達していながら得点能力の高さを証明した。

ジェフではリトバルスキー中西永輔宮沢ミッシェルなどとともにジェフの中心メンバーとして活躍。

MFもFWもこなせる万能型の選手としてチームを支えた。

1996年、越後は古河時代から12シーズンプレーしたチームを離れ当時JFLのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)へ移籍。

背番号8をつけ、4シーズンプレー。怪我と戦いながらも1998年にはベガルタ仙台のJ2リーグ昇格に貢献した。

1999年、ベガルタ仙台のJ2リーグ初年度のメンバーとしてリーグ戦26試合に出場。この年をもって現役を引退した。

越後和男の引退後と現在

越後は2000年、仙台のトップチームコーチに就任し2004年まで指導。

大学サッカーの指導者やベガルタ仙台ユース監督、花巻東高校テクニカルコーチなどを務め、2019年には台湾女子代表監督に就任した。

台湾女子サッカーは、かつてアジアの強豪だったが近年は低迷し、五輪の出場経験はない。

越後は会見で2023年女子ワールドカップ(W杯)や24年五輪を視野に、高校生ら若い世代の育成にも力を入れると話している。

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