屈強な身体を生かしたタイトなマークと空中戦を得意とするストッパー、小村徳男。
強力なヘディングは味方の危機のみならず、攻撃時にも脅威を発揮する。
DFとしては非常に稀なハットトリックを達成したこともあるほど、得点能力が高い。
日本代表でも活躍し、主将である井原正巳のパートナーとして秋田豊や斉藤俊秀としのぎを削った。
ハンマーヘッド、小村徳男に迫る。
小村徳男のプロ入り前
松江市立乃木小学校3年生からサッカーを始める。当時のポジションはFWだった。
子供の時はサッカー以外にも野球やバレーボール、バスケットボールなど様々な球技を経験した。
幼少期に色々な球技を経験することでボールの軌道感覚を養うことが出来たと後に小村は語っている。
松江市立湖南中学校卒業後、兄の通う松江南高校へ進学。この頃、監督のアドバイスによりFWからDFへ転向する。
全国高校サッカー選手権には出場することが出来ず、全国的に無名の存在だった小村は一般受験で順天堂大学へ進学。
サッカー部に所属した小村は、全国から集まる有力な選手の中で実質3軍的な扱いを受け、大学3年時にようやくレギュラーの座を掴む。
順天堂大学時代の同級生には後に日本代表となる森山泰行や古賀琢磨(元ジュビロ磐田など)、平岡宏章(元清水エスパルスなど)、棚田伸(元柏レイソル)などがおり、順天堂大学は総理大臣杯や春季大会などのタイトルを獲得し、小村は大学を代表するDFとして注目を集め、ユース代表に選出される。
小村は1992年バルセロナオリンピック予選の日本代表にも選出され、後に共に日本代表で活躍する相馬直樹や名波浩、名良橋晃、澤登正朗などと共に日の丸をつけてプレーをしたが予選突破はならなかった。
小村は、大学卒業の翌年にJリーグ開幕を控え、当時JSLに所属しJリーグ参加を表明していたマツダ(サンフレッチェ広島)、松下(ガンバ大阪)、三菱(浦和レッドダイヤモンズ)、住金(鹿島アントラーズ)、日産(横浜マリノス)などからオファーが届いた中で、井原正巳の所属する日産への入団を表明する。
小村徳男のプロ入り後
小村は1992年、横浜マリノスに入団。1993年5月29日対ジェフユナイテッド市原戦でJリーグデビューを果たすと、井原正巳と屈強なセンターバックを形成しマリノスの堅守を支えた。
1年目はルーキーながらリーグ戦29試合に出場。
1995シーズン、マリノスは1stステージを制すると、2ndステージ覇者V川崎とのチャンピオンシップも制し、年間優勝を果たす。
この試合で小村はヴェルディの三浦知良がキーパーを抜いて無人のゴールへ放ったシュートをブロックするなどビッグプレーを見せる。
1995年の活躍により、小村は日本代表へ選出。1996年のアジア杯では4試合に出場した。
マリノスでは1996年11月9日の広島戦で、DFでありながらハットトリックを達成した。これはDF登録の選手としてはJリーグ初の快挙となった。
小村はその後、1998年のフランスワールドカップ日本代表に選出される。活躍が期待されるもライバルであった秋田豊が先発として起用され、さらにユーティリティプレーヤーである中西永輔の活躍もあり、小村は控えに回ることとなった。
ワールドカップには第3戦ジャマイカ戦で累積警告により出場停止の中西に代わって出場を果たした。
小村はマリノスではその後、松田直樹や波戸康広などの台頭により出番が減少し2002年にベガルタ仙台へ移籍。
レギュラーのセンターバックとして2シーズンプレー後、2004年にはサンフレッチェ広島へ移籍した。
サンフレッチェでは背番号3を背負い、GK下田崇やリカルド、吉田恵と堅実な守備を見せるが森崎和幸のコンバートや戸田和幸の加入もあり、2006年途中にJ2の横浜FCへ移籍した。
横浜FCでは高木琢也監督の元、三浦知良や山口素弘、城彰ニらと活躍し、J1昇格に貢献。
しかし2007年シーズンには横浜FCが1年でJ2落ちし、小村はシーズン終了後に戦力外通告を受け退団した。
2008年は当時JFLのガイナーレ鳥取へ移籍するも1シーズンのみのプレーとなりこの年限りで引退をした。
小村徳男の引退後と現在
小村は引退後、テレビなどで解説者を務める傍ら、2010年にはS級ライセンスを取得。
2013年には古巣であるガイナーレ鳥取の監督を務めた。
現在はサッカースクールSKYのコーチやテレビ解説者などを務めている。
小村は現役時代、J1リーグ戦だけで381試合の出場で29ゴールを奪った。
そのほとんどがコーナーキックやフリーキックのセットプレーであり、いかに小村が空中戦に強かったかが分かる。
身を挺してゴールを守り、苦しい時には点を取ってくれる。これほど頼もしい存在はない。