正確なロングキックと柔らかいパスが持ち味の寺川能人。
高校時代は「滝二のラモス」、新潟在籍時は「新潟のフィーゴ」の異名を持ち、その優れたパスセンスで多くのゴールを生んだ。
ボランチに抜擢されてからは無尽蔵のスタミナで幅広いエリアをカバーしつつ、長短のパスで攻撃の起点となった。
新潟や琉球では豊富な経験を武器にキャプテンを務めチームを牽引。
寺川能人はプロ生活20年間を全力で走り続けた。
寺川能人のJリーグ入り前
幼い頃からサッカーに慣れ親しんでおり神野SCを経て神戸FCジュニアユースに入団。
中学卒業後は名門である滝川第二高校へ入学した。同学年に木場昌雄、吉坂圭介がいた。寺川の2学年下には波戸康広がいた。
寺川が2年の時に、滝川第二は全国高校サッカー選手権に出場しているが1回戦で帝京高校に1-2で敗れている。
長髪をなびかせながら司令塔として活躍するプレーから、寺川は「滝二のラモス」と呼ばれた。
寺川は高校卒業後の1993年、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団する。
寺川能人のJリーグ入り後
マリノスに入団後、2年間は選手層の厚さもあり出場機会はなかった。
3年目の1995年シーズンは開幕戦からベンチ入りを果たし、第2節ヴェルディ川崎戦でサパタに代わって後半からJリーグ初出場を果たした。
その後も寺川はベンチ入りを続け、今シーズンリーグ戦19試合に出場。守備的なポジションもサイドも高いレベルでプレー出来るユーティリティプレーヤーとして活躍。マリノスはこのシーズン初の年間チャンピオンに輝いている。
しかしその後は出場機会に恵まれず、1999年にジェフユナイテッド市原移籍。
1999年2ndステージ第3節vsベルマーレ平塚戦では60分に中西永輔に替わりピッチに入ると61分にJリーグ初ゴールを決め、この試合の勝利に貢献した。
2000年アルビレックス新潟に移籍。
反町監督の元、柔らかいパスと正確なロングキックで右サイドの攻撃的MF、あるいはボランチなどで活躍した。
惜しくもJ1昇格をのがした2003年、J1の大分トリニータに移籍。
サポーターや監督への想いもあったが、寺川自身、ベテランと呼ばれる年齢に差し掛かりもう一度J1の舞台に立ちたいという気持ちもあっての悩んだ末の移籍であった。大分トリニータではチームの心臓として走り回りリーグ戦30試合に出場し4ゴールを決め、J1残留に大きく貢献した。
翌2004年J1昇格を決めたアルビレックス新潟に復帰。
アルビレックス新潟の中盤に君臨しチームを支えた。正確なパスでゲームをメイクするプレースタイルから「新潟のフィーゴ」と呼ばれる。豊富な経験を買われゲームキャプテンとしてもチームを牽引。
2009年反町監督率いる湘南ベルマーレへ移籍。
加入初年度はベテランながらリーグ戦51試合に出場し7得点を記録。ベルマーレのJ1昇格に貢献した。
2011年はFC琉球に移籍。
琉球では既に37歳という年齢になっていたがシーズンを通して主力として活躍。琉球でもキャプテンを務め中盤の核として2シーズンにわたりチームを牽引した。
2012年、寺川能人は現役引退を表明。38歳での引退だった。
寺川能人の引退後と現在
寺川能人は引退後、2013年から古巣のアルビレックス新潟のスクールコーチに就任。2015年からはアルビレックス新潟の強化部スカウトに就任している。
平均引退年齢が25歳といわれるJリーグにおいて20年間もプロ生活を続けた寺川能人。
驚くべきはそのスタミナであり、現役晩年に所属したFC琉球では37歳という年齢ながらリーグ戦33試合中30試合に出場を果たした。
Jリーグより遥かに劣るJFLという環境下でここまで出来る選手は非常に稀であると思う。
才能や気力だけで20年もプロ生活を送れる訳がなく、共にプレー出来た琉球の若き選手達は寺川から身体のケアや練習に取り組む姿勢など、多くの事を吸収出来たのではないだろうか。