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大橋正博の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第75回】

正確なプレイスキックと状況判断に優れたゲームメーカー。

大橋正博。

数々のチームを渡り歩き、どのチームにおいても攻撃の組み立てを行う貴重な役割を担った。

大橋の蹴るフリーキックは多くの人を魅了した。

アジアチャンピオンズリーグには4年連続で出場したという記録をもつ大橋正博に迫る。

大橋正博のプロ入り前


大橋は1981年に神奈川県横浜市に生まれた。

大橋は幼稚園のときから、ピアノをやってみたいと思っていたが、友人に誘われる形でサッカーを始める。

深谷台小学校5年生の時に後に所属することになる横浜マリノスの下部組織である横浜マリノスプライマリーに入る。

この頃の大橋はまだプロになるという目標はなく、純粋にサッカーを楽しんでいたという。

深谷中学校入学後はマリノスジュニアユースに昇格し、頭角を現していく。

湘南高校時にはマリノスユースに昇格するが、高校2年次に同じ横浜に本拠地を置く横浜フリューゲルスユースへ移籍。

しかしフリューゲルスが消滅したため、高校3年次には再度マリノスユースへ戻った。

1999年、高校3年次には横浜マリノスvsベルマーレ平塚戦で17歳ながらデビューを果たす。

大橋の高いテクニックとポテンシャルの高さはこの時から期待されていた。

大橋の代でマリノスユースからトップに上がれた同期は、大橋のほかに石川直宏(元FC東京)だけだった。

大橋正博のプロ入り後

大橋は高校卒業後、2000年に横浜F・マリノスのトップチームに昇格。

しかしプロ1年目はリーグ戦1試合のみの出場に留まり、大橋は翌年J2の水戸ホーリーホックへ移籍。

ここで大橋は主力として活躍し、リーグ戦35試合に出場し7得点を挙げた。

翌年の2002年にはマリノスへ復帰するもマリノスの中盤は中村俊輔、奥大介遠藤彰弘上野良治などがおり、どの選手もプレイスキックやドリブル、パスの精度が高い選手だった為、大橋はその牙城を崩せずカップ戦のみの出場に留まり8月にはシーズン途中でJ2のアルビレックス新潟へ移籍し、12月までプレーした。

2003年、2004年シーズンは出番に恵まれなかったが2005年にレギュラーを獲得し、リーグ戦25試合に出場した。

2006年には東京ヴェルディへ完全移籍。ラモス瑠偉監督の元、レギュラーに定着。

プレイスキックに定評のある大橋はコーナーキックやフリーキックを任される。
第45節の湘南ベルマーレ戦では直接コーナーキックを決める。大橋の蹴ったボールはキーパーの頭上を越え、ポストに当たってそのままゴールネットを揺らした。

2007年にはJ1の川崎フロンターレへ移籍。中村憲剛や谷口博之と中盤を形成した。

第10節のFC東京戦ではフリーキックを直接決める。大橋は先制点含む2得点を挙げる活躍を見せて5-2の勝利に貢献した。

2009年には韓国Kリーグの江原FCへ移籍。

自身初となる海外リーグでのプレーとなり、大橋はリーグ戦20試合に出場し4得点を挙げるなど高い順応性を見せた。

2010年には水戸ホーリーホック、2011年は再び江原FCでプレーし、シーズン途中に当時JFLの松本山雅FCへ移籍。松本山雅のJリーグ昇格に貢献した。

2012年も松本山雅FCでプレーをしたが、2012年オフに契約非更新となり松本を退団。

大橋は2012年で現役生活を終えることになった。

大橋正博の引退後と現在

大橋は引退後、2014年2月より横浜F・マリノスのスクールコーチに就任した。

現在はマリノスプライマリーのU11コーチを担当している。

大橋は現役時代、その独創性溢れるプレーで多くのチームで活躍しその鮮やかなプレイスキックで華麗なゴールを決めた。

サッカー選手は年齢を重ね、体力やスピードは衰えても、技術は錆びることはない。

大橋の技術はジュニア世代にとって学ぶべきところは多いだろう。

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