日本を代表するFW中山雅史と同じ苗字、同じポジションということで「難波のゴン」という愛称で親しまれたFW中山悟志。
高校時代は超高校級ストライカーとして注目を集め、複数クラブから誘いを受けた。
184センチ、79キロという恵まれた体格を生かした空中戦での強さと強烈な左足でのシュートが魅力で、将来を羨望された逸材。
U-18、U-19、U-21、U-22日本代表と世代別代表の常連として経験を積み、所属したガンバ大阪では次代を担うホープとして期待されるも、出場機会に恵まれずガンバ大阪では満足のいく結果を残すことはできなかった。
それでも中山は現役にこだわり、名古屋、熊本、水戸、長崎、琉球とチームを転々としながらも34歳まで現役を続けた。
映える結果を残すことは出来なくとも、日の当たる場所で輝くことは出来なくとも、ピッチの中にいることを選択した。
晩年の中山悟志は、スポットライトを浴びて持てはやされた10代の頃の面影は微塵も残っていなかった。
そこにあったのは、泥臭く、チームの為にひたすらゴールを追い続ける諦めない男の姿だった。
中山悟志のJリーグ入り前
小学校では野球をやっていたが、高鍋東中学校入学後に本格的にサッカーを始め、卒業後は名門である鵬翔高校へ進学。
高校2年の時に主力となり、全国高等学校総合体育大会に出場するも2回戦で敗れた。高校3年次には国体に出場するもチームは目立った活躍は出来なかった。
しかし、中山のフィジカルとサッカーセンスは早くから注目を集め、18歳の時にU-18日本代表に選出。佐藤寿人や前田遼一、青木剛らとともにオランダ遠征などに参加した。
高さのあるヘディングと抜群の得点感覚で世代では頭一つ抜けた存在として注目を集めた。
高校3年次には複数クラブからオファーを受けるも、憧れだったエムボマがかつて在籍したガンバ大阪に入団を決める。
中山悟志のJリーグ入り後
2000年にガンバ大阪に入団した中山だったが、入団1年目はリーグ戦未出場に終わる。
ガンバはニーノ・ブーレ、ビタウ、アンドラジーニャら攻撃的外国人選手や、小島宏美、吉原宏太、大黒将志、松波正信などの日本人FWを豊富に抱えており、プロとして実績のない中山にはチャンスはなかなか訪れなかった。
入団2年目の2001年6月23日、第12節サンフレッチェ広島戦の後半44分に、吉原宏太と交代出場しJリーグ初出場を記録。この年はリーグ戦3試合に出場したが無得点に終わった。
流れが変わったのはプロ3年目の2002年。
トゥーロン国際大会で優勝を目指すU-21日本代表は、怪我のために辞退した前田遼一の代わりに中山を選出。
背番号14をつけた中山はスタメンを勝ち取ると、予選グループ第1戦のU-21アイルランド代表でさっそく得点を挙げて勝利に貢献。
予選第3戦のU-21ドイツ代表選では2得点を挙げ、日本の銅メダル獲得に大きく貢献し、自身も得点王に輝く活躍をみせた。
この活躍を受け、ガンバでも少しずつ出場機会を増やすが、スタメン定着までは至らなかった。
2005年には名古屋グランパスへのレンタル移籍を経験し、2006年はガンバに復帰しリーグ戦22試合に出場するも2得点に終わり、2007年にガンバ大阪を退団。
2008年にはJ2のロアッソ熊本に入団。
攻撃だけでなく前線からの積極的な守備でチームに貢献。加入1年目はキャリアハイとなるリーグ戦36試合に出場し5得点を挙げた。
2010年には水戸ホーリーホックに移籍するもリーグ戦1得点に終わり、翌年にはJFLのV・ファーレン長崎へ移籍。
2012年には長崎のJFL優勝、J2昇格の立役者となり、自身も二桁得点、MVP級の活躍を見せ、リーグベスト11に選出されるなど充実した1年となった。
しかし、J2昇格後の2013年は出場機会を失い、JFLのFC琉球へ移籍。
薩川了洋監督のもと、戦術理解度の高い頼れるベテランとしてチームを牽引。若い選手の多い琉球の模範となった。
琉球では3シーズンプレーし、2015年に34歳で現役を引退した。
中山悟志の引退後と現在
中山は引退後、ガンバ大阪のアカデミースカウトに転身。将来のガンバを背負う選手を発掘、育成に取り組んでいる。
中山は、スカウトに転身後のインタビューで選手を見る際に重要視しているのは「メンタルが強いか」であると答えている。
この言葉を聞いたときに、メンタルが強いとはどういうことなのだろうかと考えた。
プロサッカー選手の「メンタルが強い」というのは、レギュラーを外されても、チームをクビになっても、大怪我をしても、結果が出なくても腐らずに黙々と準備を続け、チャンスをものにして結果を出す選手のことをいうのだろうか。
言葉にするのは簡単だが、実際にできる選手は限りなく少ない。たった1回の挫折で、それが弾みとなってそれまで積み上げてきたものが一気に崩れていく選手は多い。
中山悟志の現役生活は苦難の連続だったように思う。実働16年のプロ生活で思い通りにいったシーズンはどれほどあっただろうか。世間が抱いた難波のゴンへの期待と、プロ選手としてのリアルな結果のギャップに苦しんだろうと思う。
だが中山は走り続けた。若かりし時は1トップでどう得点をとるかしか考えないエゴイストな選手だったが、年を取るにつれ、守備を覚え、献身的なプレーが増え、ポリバレントな選手となり、チームにとって欠かすことのできない選手となった。
中山が16年もの間、プロ生活を送ることができたのは、きっと多くの挫折や苦い経験をしたからではないだろうか。辛く厳しい経験をしたからこそ、それを乗り越えたときに見える景色は格別だと知っているからではないだろうか。