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上野良治の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第78回】

その非凡なサッカーセンスは早くから注目を集めた。

柔らかなボールタッチと急所をつく傑出したパスセンス。

上野良治は武南高校1年生から背番号10を背負い「天才司令塔」と呼ばれ、高校3年時にはバルセロナオリンピック日本代表候補に選出されるほど将来を大いに期待された。

寡黙な天才、上野良治に迫る。

上野良治のプロ入り前


上野良治は1973年に埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれる。

兄の影響を受けて小学2年からサッカーを始める。6年生の時にFC浦和という選抜チームのメンバーに選出された。(後に辞退)

浦和市立大原中学校では3年のときに全国大会で優勝。決勝の東海第一中戦では得意のミドルシュートを決めた。

当時の上野のポジションは攻撃的MF。卓越したパスセンスで天才司令塔として名を馳せた。

高校は強豪武南高等学校へ進学。

上野は1年時から背番号10番を付けてレギュラーとなる。

インターハイ、選手権に上野は3年連続で出場。

高校選手権では1年時に準優勝、2年時にベスト4、3年時にはベスト8と優勝にこそ手が届かなかったものの、上野は強豪武南の象徴的な存在となり、高校選抜やユース代表に選出された。

武南高校時代は一つ下に浅利悟(元FC東京)や室井市衛(元鹿島アントラーズなど)がいた。

上野はその高いパスセンスを評価され、高校3年生の時にバルセロナオリンピック日本代表候補に選出され、合宿に参加した。

高校を卒業後は早稲田大学へ進学。

1年生からレギュラーとして活躍し、1年時の大学選手権では決勝で中大に敗れ、日本一にはなれなかったものの、上野はベストFW賞に選ばれた。

しかし2年時に就任した松永監督の構想から外れ、サッカー部を退部。

上野は大学を休学し、横浜マリノスへ入団する。

上野良治のプロ入り後

1994年、マリノス入団1年目はリーグ戦15試合に出場し、9月のベルマーレ平塚戦ではJリーグ初ゴールを記録した。

上野はアトランタ五輪代表候補にも選出され、 同学年の小倉隆史前園真聖らと共に中心選手として期待されたが、同年の天皇杯で大怪我を負った影響で選考から外れてしまう。

1995年以降は怪我の影響もありマリノスでの出番は限られていたが、1997年に就任したスペイン人監督ハビエル・アスカルゴルタによって上野は攻撃的MFからボランチへコンバート。

上野の展開力と高度なパス能力は監督の目指すサッカーにはまりレギュラーに定着。

守備的なMF遠藤彰弘と中盤を組み、奥大介や中村俊輔と連係を築き、2000年シーズンの1stステージや2001年シーズンのナビスコ杯獲得に貢献した。

2000年にはトルシエ監督から召集を受け、日本代表へ選出。2000年6月のハッサン2世杯ジャマイカ戦で代表デビューを果たした。

この試合で上野は名波浩とボランチを組み、トップ下の中田英寿をサポートしながら中盤のバランスを取るプレーに徹した。

しかし代表には定着できず、2002年に一度ジーコ監督により日本代表へ選出されるが出場機会はなかった。

上野はその後も一貫してマリノスでプレー。ベテランの域に達しても上野の技術は円熟味を増し、経験に裏打ちされた的確なポジショニングやゲームを作る効果的なパスで存在感を発揮し、2003年から2年連続での横浜F・マリノスのリーグ優勝に貢献した。

2007年までプレーし、Jリーグ通算287試合に出場、24得点という成績を残し上野良治は現役生活にピリオドを打った。

上野良治の引退後と現在

引退後、上野はオフィシャルな情報を残しておらず詳細は分かっていない。

誰もが天才と認めた上野良治。

寡黙であり、派手な選手ではなかったがその才能を感じるひとつひとつの繊細なプレーはいつまでも記憶に残り続ける。

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