緩急のついたドリブルと、スピードを生かした裏への抜け出しで、チャンスを演出したFW山崎光太郎。
身長165センチと小柄ながら、鋭いクロスに飛び込んで合わせる上手さも併せ持つストライカー。
12歳から18歳まで年代別日本代表に選出され、1995年のFIFA U-17世界選手権では日本代表の背番号を10を背負い、小野伸二や高原直泰らとともに戦った。
清水東高校で活躍後、Jリーグでは名古屋グランパスエイト、清水エスパルス、ヴァンフォーレ甲府でプレー。
甲府時代は2004年第19節横浜FC戦でハットトリックを決め、チーム史上3人目となる偉業を達成した。
山崎光太郎のJリーグ入り前
清水市立高部東小学校入学後にサッカーを始め、早くから頭角を現す。
清水市立第六中学校入学後は静岡県選抜に選出され、全国大会や海外遠征を経験する。
当時はFWではなく攻撃的なMFとしてプレーした。
またこの頃から年代別日本代表に選出され、中心選手として活躍している。
中学卒業後、清水東高等学校へ進学。
1学年上に中払大介(アビスパ福岡)、1学年下に高原直泰(ジュビロ磐田)、山本浩正(ジュビロ磐田)らがいる。
山崎は1年次からレギュラーとして活躍。高校3年次には背番号10を背負い、2年の背番号11高原との2トップで活躍した。
選手権では、2年次の県予選の決勝で静岡学園に0-2で敗れた。
3年次にも南雄太(柏レイソル)、坂本紘司(ベルマーレ平塚)、内藤修弘(清水エスパルス)らをようする静岡学園に県予選準決勝で0-1で敗れている。
国体には静岡県選抜として高校2年次から2年連続で出場し、2年次に準優勝、3年次には優勝を経験している。
また高校2年次には年代別日本代表のキャプテンとして背番号10を背負い、AFC U-17選手権に出場。
高原との2トップで日本を牽引し、決勝戦のカタール戦では自らが決勝ゴールを決めアジア制覇の立役者となった。
また翌年開催されたエクアドルでのU-17世界選手権にも背番号10を背負い、出場。
メンバーは稲本潤一(ガンバ大阪ユース)、小野伸二(清水商高)、高原直泰(清水東高)、曽ヶ端準(鹿島アントラーズユース)、小笠原満男(大船渡高)などそうそうたる選手が選出された。
初戦のガーナ戦は0-1の敗戦だったものの、山崎は第2戦のアメリカ戦で先制ゴールを決めた。その後も高原が追加点を奪い、2-1で勝利。
しかし第3戦目のエクアドル戦では0-0となり、1勝1分1敗でグループリーグ敗退となった。
山崎は高校卒業後、中京大学への進学とともに名古屋グランパスエイトへ入団し、学生Jリーガーとなった。
中京大では運動生理学を専攻した。
名古屋での同期入団に滝澤邦彦、矢部次郎、三原廣樹、中谷勇介、古賀正紘がいる。
山崎光太郎のJリーグ入り後
1997年に名古屋グランパスエイトに入団した山崎だったが、当時の名古屋にはストイコビッチや平野考、福田健二などがおり、出場機会に恵まれず、入団2年での公式戦での出場機会はなかった。
1999年、山崎は名古屋を退団し、籍を置いていた中京大学のサッカー部に入団することを決意。
当時、プロから大学サッカーへ行く前例はほとんど無い状態であった。
中京大では楽山孝志(ジェフ千葉)、山岸範宏(浦和レッズ)らとともにプレー。
大学3年次は怪我の為に出場機会がほとんどなかったが、4年次に全日本大学選手権で優勝を達成。
決勝では平川忠亮(浦和レッズ)、羽生直剛(ジェフ千葉)らをようする筑波大学を2-1で下した。
山崎は得点王と大会最優秀選手に選出され。この活躍を受け、大学卒業後に清水エスパルスへ入団した。
清水では2001年3月31日第3節東京ヴェルディ戦でベンチ入りを果たすと、後半39分に安永聡太郎と交代で出場しJリーグデビューを果たした。
その後はタイプの近い横山貴之、久保山由清らとポジション争いをすることになりながらもリーグ戦9試合に出場した。
しかし度重なる怪我の影響もあり、翌年の2002年はリーグ戦の出場機会がなくこの年限りで清水を退団。
2003年はJ2のヴァンフォーレ甲府へ移籍。
2003年3月21日第2節水戸ホーリーホック戦で甲府での初出場を果たす。
小倉隆史や長谷川太郎とのコンビで活躍した。
2004年6月23日第19節横浜FC戦では、バロンとのコンビで得点を量産。
自身初なるハットトリックを達成した。
2005年、J1リーグ16位の柏レイソルとの入れ替え戦に勝利し、J1昇格を果たす。
2006年、自身3度目のJ1挑戦のシーズンとなった。
バレーとのコンビでコンスタントに出場し、第20節ジュビロ磐田戦では後半35分に貴重な同点ゴールを決め1-1の引き分けに持ち込んだ。
第33節ジェフ千葉戦では、開始1分に先制ゴールを決めるも2-3で敗れている。
2007年もヴァンフォーレ甲府でプレーしリーグ戦14試合に出場するもノーゴールに終わる。
チームもJ2に降格し、この年限りで山崎は現役を引退した。
山崎光太郎の引退後と現在
山崎は引退後、2008年から清水エスパルスのスカウトとして活動。
チーフスカウトを経て、強化部長に就任している。
山崎光太郎は高卒後と大卒後に2回Jリーガーになったという珍しい経験の持ち主だ。
しかしプロとしては体格に恵まれず、また鋭いクロスにDFの間をかいくぐって身体ごと飛び込むようなプレースタイルであったため、山崎には常に怪我がつきまとった。
常に年代別日本代表の中心選手として活躍してきた実績からすると、プロでは大きな活躍を残せなかった印象だが、同じく年代別代表でプレーした小野伸二や、清水東の後輩である高原直泰などから「天才だった」と言われるなど、当時の山崎のプレーを称賛する選手は多い。