上背は176センチと大きくないが、抜群の身体能力の持ち主でサンフレッチェ広島で活躍した佐藤康之。
サンフレッチェ広島では同じく身体能力の高い柳本啓成とセンターバックを形成。
滞空時間の長いヘディングと快速を生かしたカバーリングを武器に1994年サントリーシリーズ優勝に貢献した。
またパンチパーマに強面の顔であったが愛嬌があり、ムードメーカーとしても知られそのギャップからJリーグ創世記の人気選手となった。
佐藤康之のプロ入り前
小学校の時にサッカーを始め、矢野中学校に入学後、サッカー部で活躍。
矢野中学校の後輩には後にサンフレッチェ広島に入団する森崎兄弟(浩司、和幸)がおり、佐藤を含め6人のJリーガーを輩出している。
矢野中学校を卒業後、サッカーの名門である山陽高校へ進学。
当時の広島は吉田安考がいる国泰寺高校や広島工業が全国高校サッカー選手権の常連となっており、広島県大会を勝ち抜くことは出来なかった。
高校卒業後の1984年、地元広島に本拠地を置く日本サッカーリーグのマツダSC(当時2部)に加入。
加入2年目に2部リーグ2位で1部に昇格すると、今西和男監督の元で主に左のストッパーやサイドバックとして活躍。
1988年にはその才能を評価され、横山謙三監督により日本代表に初招集。
1月30日にアブダビで行われたアラブ首長国連邦との親善試合にベンチ入りしたが、出場はなかった。
マツダSCは1989-1990シーズンに2度目の2部リーグ降格となるも1991-1992シーズンに1部復帰を果たしている。
佐藤は松田浩や信藤克義らとマツダSC伝統の堅守を誇った。
1992年、マツダSCはJリーグ参入の為にサンフレッチェ広島に改称し佐藤康之はサンフレッチェとプロ契約を結んだ。
佐藤康之のプロ入り後
佐藤は1993年5月16日に行われたジェフ市原との開幕試合に背番号2をつけ先発出場を果たすもこのシーズンはリーグ戦8試合の出場に留まった。
翌年の1994年はセンターバックに怪我人が相次いだ事もあり佐藤康之は身長176センチながらセンターバックとして起用される。
同じく身長は175センチと高くない柳本啓成とセンターバックを形成し、DFラインを高く保ち裏のスペースは持ち前のスピードと身体能力の高さでカバーした。
この時のサンフレッチェDF陣であるサイドバックの片野坂知宏は身長171センチ、森山佳郎も身長175センチと4バック全員180センチない布陣だったが連携のとれた安定したクリーンな守備でサンフレッチェ広島のサントリーシリーズ優勝に貢献した。
この優勝で佐藤はパンチパーマに強面のルックスであるが明るい性格というギャップで、甘いルックスで女性ファンの多かった柳本とともにサンフレッチェを支えるセンターバックとして全国に知れ渡ることとなった。
1994年のチャンピオンシップはNICOSシリーズ覇者のヴェルディ川崎と対戦したが1戦目は北澤豪に、2戦目はラモス瑠偉に芸術的なループシュートを決められ年間チャンピオンにはなれなかった。
年齢も30代に突入しベテランの域にあった佐藤康之だが1995年もレギュラーとして43試合に出場。
1996年は若返りを図るサンフレッチェで最年長プレーヤーとなった。シーズン開幕前に右膝を故障し、前半戦は棒に振ったが後半戦復帰し13試合に出場。この年、Jリーグ初ゴールも記録した。
1997年、佐藤はジャパンフットボールリーグの大分トリニティ(現大分トリニータ)へ移籍。
リーグ戦23試合に出場するも大分は12位と低迷し佐藤はこの年限りでユニフォームを脱いだ。
佐藤康之の引退後と現在
佐藤は引退後、大分トリニータのスタッフに就任。
現在は地元である広島県でサッカースクールの運営に携わっている。
佐藤は現役時代、屈強な外国人FWを相手に自身の武器である身体能力の高さで対等に渡り合った。
身長差がある相手に対しても滞空時間の長い跳躍力で競り合いで負ける事なく跳ね返した。
佐藤康之はサッカーは体躯ではないという事を体現した選手である。