ジェフ市原の創世記を支えたDF阪倉裕二。
1対1に強く、マンマークには定評があったため、エースキラーと呼ばれた。
日本代表には1990年から1992年まで招集され、1990年のダイナスティカップを中心に6試合に出場。
1991年のキリンカップではトットナム・ホットスパーの一員として来日したリネカー相手に徹底したマンマークをして仕事をさせなかった。
ジェフを退団後は、名古屋グランパス、ベガルタ仙台でプレー。
名古屋ではベンゲル監督の元でゾーンディフェンスを習得し、DFの要として活躍した。
阪倉裕二のプロ入り前
小学校2年生の時に兄の影響でサッカーを始め、中学校卒業後、名門の四日市中央工業高校へ進学。
四日市中央工業には阪倉の2学年上に、後にともにジェフでプレーすることになる越後和男がいた。
高校3年次には全国高等学校サッカー選手権大会に出場。3回戦では東海大甲府、準々決勝では鹿児島実業、準決勝では秋田商業を相手に完封勝利し、阪倉は守備の大黒柱として活躍。決勝戦では真田雅則、江尻篤彦を擁する清水商業と対戦し0-2で敗れている。
高校を卒業後、順天堂大学へ進学。
同期には真田雅則、杉本雅央らがいた。1学年上には石井正忠、1学年下には大嶽直人がいる。
順天堂大学時代は4年次に全日本大学サッカー選手権大会を制覇。3年連続3回目の優勝となった。
決勝では山口素弘を擁する東海大学相手に4-0と圧勝し、阪倉はベストDF賞を受賞するなど活躍した。
大学卒業後は、日本サッカーリーグの古河電工に入団する。
阪倉裕二のプロ入り後
古河電工に入団した阪倉はすぐにレギュラーの座を射止めると、JSL初年度はリーグ戦20試合に出場。
またこの年に日本代表にも選出。ダイナスティカップに出場するも、韓国、中国、北朝鮮戦に出場するも全敗し、グループリーグ最下位となっている。
1991年も引き続き日本代表に選出され、キリンカップサッカーに出場する。
この大会には後にヴェルディ川崎でプレーするビスマルクや鹿島アントラーズでプレーするべべットがいるバスコ・ダ・ガマ、名古屋でプレーしたエースストライカー、ゲーリー・リネカーがいるトットナムを参加。
阪倉はトットナム戦でリネカー相手に持ち前のハードマークを敢行し、見事に完封。またこの試合で得点も記録し4-0での勝利に貢献している。この試合は国際Aマッチにはカウントされないものの、阪倉にとって代表唯一の得点となった。
1992年、古河電工はジェフ市原となり、Jリーグに参戦を表明。
阪倉は引き続き、ジェフでのプレーを選択した。
1992年のヤマザキナビスコカップは宮澤ミッシェル、サンドロと3バックを形成し9試合に出場。
1993年にJリーグが開幕し阪倉は開幕戦からフル出場を続けリーグ戦25試合に出場するもジェフは下位に低迷した。
1994年は出場機会が激減し、この年限りでジェフを退団。
1995年は出場機会を求めて名古屋グランパスエイトへ移籍した。
1995年は開幕戦からストッパーとしてフル出場を続けた。第4節浦和レッズ戦では0-0のまま延長に突入しPK戦にもつれ、10人目のキッカーまで登場する激闘となったが、阪倉は8人目のキッカーとして登場しゴールを決めている。
名古屋ではシーズン序盤はレギュラーとして活躍するも、勝ちきれない試合が続き、シーズン中盤からベンチを温める日が続いた。
NICOSシリーズ第24節ベルマーレ平塚戦で大岩剛と交代してピッチに入るも、この試合が名古屋でのラストゲームとなった。
結局名古屋ではリーグ戦18試合に出場したが、1年で退団することになった。
1996年にはJFLのブランメル仙台へ移籍。
この年のブランメル仙台には吉田暢、影山雅永、フランタ、越後和男、リトバルスキー、オルデネビッツなど多くの元ジェフ戦士がいた。
ブランメル仙台はJFLでは脅威となる戦力を擁するも、リーグ戦では振るわず6位となった。
ブランメルで2年間プレーした後、1998年は東海リーグのマインドハウスTCで1年間プレーし、この年限りで引退した。
阪倉裕二の引退後と現在
阪倉は引退後、指導者へ転身。
1999年に横浜FCのコーチになると、その後は京都サンガ、栃木SC、清水エスパルス、 AC長野パルセイロなど各クラブでコーチ、監督を務めた。
2021年には中国サッカー・甲級リーグの浙江FCのU-12チームの監督に就任している。