左右両足から繰り広げられる酒井友之のフリーキックは正確だ。
1997年、ジェフ市原でプロキャリアをスタートさせると、安定感のあるボールコントロールと、どのポジションでも対応できるユーティリティ性を武器に瞬く間にトッププレーヤーの仲間入りを果たした。
U20日本代表では、ワールドユース選手権の準優勝に貢献。酒井友之は、右アウトサイドのポジションで起用され、トルシエ監督の信頼を勝ち取り、全試合に出場する活躍を見せた。2000年には日韓戦で日本代表デビューを果たす。
正確無比なアーリークロスと強烈なシュートを持った酒井友之は千葉で活躍した後、名古屋、浦和、神戸、藤枝と渡り歩く。
そして最後に酒井が選択した場所は、東南アジアのインドネシアであった。
酒井友之のJリーグ入り前
小学校1年生の時にサッカーを始め、2年生のときに東京都練馬区に転居。
小学6年生の時に、当時のジェフ市原のセレクションを受けて合格。片道2時間かけて千葉の練習場まで通う日々を送った。
ジェフユナイテッド市原ジュニアユースでレギュラーとして活躍した酒井は、東京都立豊島高等学校進学とともにユースに昇格。
ユースでも主力して活躍し、高校1年時にはU17日本代表に選出され、エクアドルで行われた世界選手権に出場。
チームはグループリーグで敗退するも、後のU20代表としてともに戦う曽ケ端準、稲本潤一、小野伸二、小笠原満男、新井場徹、高原直泰ら錚々たるメンバーとプレーを経験する。
高校3年時、ユース所属ながら1997年5月3日の1st第6節清水エスパルス戦でJリーグ初出場を果たすと、その4日後の第7節サンフレッチェ広島戦でリーグ初ゴールをマークする。
この年、酒井は高校生ながらリーグ戦18試合に出場し2ゴールの成績を残した。
翌年、高校を卒業した酒井はトップチームに昇格。ジェフとプロ契約を結んだ。
酒井友之のJリーグ入り後
ジェフと本契約を結んだ酒井は、プロ1年目から躍動する。
安定したボールの扱いと正確なフリーキックを武器に、スタメンに定着。リーグ戦25試合に出場を果たした。
プロ2年目の1999年にはワールドユース日本代表に選出。ナイジェリアで開催された世界選手権では、グループリーグの1位突破に貢献。決勝トーナメント1回戦のポルトガル戦ではPK戦にもつれこむも、5番目のキッカーを務め見事1-1(PK5-4)で勝利に貢献した。
その後も、メキシコ、ウルグアイを倒し、決勝に進出するもスペインに0-4で敗れるも、日本は準優勝を果たしている。
翌年の2000年には、シドニーオリンピック日本代表に選出。 トルシエ監督の推奨する「変形3バック」のなかで、時に守備ラインやボランチにスライドできる右アウトサイドとして重宝された。
しかし酒井は、全試合に出場し日本の躍進に貢献するも、準々決勝のアメリカ戦で、試合終了間際に相手に痛恨のPKを与えてしまい、日本はPK戦の末に敗れている。
この年の12月20日の韓国戦にて途中出場ながら日本代表デビューを果たす。代表への定着を期待されたが、酒井にとってこれが最初で最後の代表戦となった。
2001年には名古屋グランパスエイトへ移籍。
背番号8を背負った酒井は、ウエズレイ、岡山哲也、ウリダ、山口素弘と強力な中盤を形成。正確なクロスでチャンスを演出した。
名古屋で3シーズンプレーした後、2004年に浦和レッズへ移籍。
浦和では、ブッフバルト監督の元でプレー。2004年開幕戦のマリノス戦から出場を続ける。長谷部誠、山田暢久、平川忠亮と強力な中盤を牽引した。
2007年7月に出場機会を求めヴィッセル神戸へ移籍。
1年目は10試合に出場するも、翌年は以前から痛めていた腰の状態が悪化。プロ入り後初となる公式戦出場なしに終わり、戦力外通告を受け同年限りで神戸を退団した。
引退も噂されたが、懸命にリハビリに取り組んだ酒井は、監督を務める斉藤俊秀から直接オファーを受け、2009年8月から4ヶ月間の契約期間で静岡県社会人リーグ1部に所属する藤枝MYFCに加入する。
藤枝では背番号50を背負い、県リーグ8試合に出場し3ゴールをマーク。酒井の加入もあり、藤枝は静岡県リーグ1部で1位となったが、リーグ戦における試合当番の不履行により5順位降格の処分を受けて、この年の最終順位は6位となっている。
その後、藤枝を退団した酒井は、Jリーグのクラブの他、セルビア、ベトナムのクラブと入団交渉を続けるもまとまらず、2010年8月、インドネシアで実施された外国人選手を対象としたトライアウトに参加。
ここでの活躍が評価され、2010年9月にインドネシア・スーパーリーグのペリタ・ジャヤに加入する。
ペリタ・ジャヤでは、オフェンシブMFのポジションで使われることが多かった。2011年3月から6月までは同リーグのペルセワ・ワメナへ移籍。
2011年11月には同リーグのペリシラム・ラージャ・アンパットに加入。ここでも技術を高く評価された酒井はチームの中心として活躍。リーグ戦の34試合すべてに出場している。
翌年、インドネシア2部リーグのデルトラス・シドアルジョに入団し前期リーグのみプレーし退団。
同年8月に現役引退を表明した。
酒井友之の引退後と現在
酒井は現役引退後、浦和のハートフルクラブのコーチに就任。
幼稚園や小学校のスクールを4年半ほど経験した後、2017年からジュニアチームのコーチを務めている。
酒井は現役当時、インドネシアの環境について「最初にインドネシアへ来たときはびっくりしました。日本とここまで環境が違うとは思いませんでした。」と語っている。
日本との環境の差は歴然で、練習場の芝の状態も劣悪だったという。 雨がよく降る地域、降らない地域で地面の硬さが異なり、田んぼのようなグラウンドで試合をしたこともあったという。
それでも、かつて黄金世代と呼ばれた男は、日本とのギャップに戸惑いながらも、泥にまみれて、異国の地でボールを追い続けた。
酒井は後に、インドネシアでの経験をこう語っている。
「日本との違いが、最終的に自分にとってワールドユースの準優勝と同じぐらいいい経験になったし、自分の強みになりました。」
栄光の瞬間と過酷な経験は、永遠に酒井の記憶と記録に残り続ける。