DFのポジションならどこでもこなせるユーティリティ性が持ち味の大嶽直人。
的確な指示でDFラインを整え、安定したカバーリングを見せる大嶽は横浜フリューゲルスや京都パープルサンガでDFの要として活躍し、日本代表としてドーハの悲劇も経験した。
1993年の横浜フリューゲルスの天皇杯制覇にもレギュラーとして大きく貢献した。
大嶽直人に迫る。
大嶽直人のプロ入り前
幼少期からサッカーを始め、多くのプロ選手を輩出した清水FCで基礎を学ぶ。
高校は東海大学第一高校(現東海大学付属静岡翔洋高校)へ進学。
高校3年時には第65回全国高校サッカー選手権に出場。
大嶽はキャプテンとしてチームを牽引し、決勝では自身の得点で2点目を挙げ、国見高校を2-0で下し、全国制覇に貢献した。
この時の東海大学第一高校は澤登正朗、三渡州アデミール、吉田康弘、内藤直樹がおり圧倒的な力を持っていた。
大嶽は高校卒業後、順天堂大学へ進学。
順天堂大学ではインカレで3連覇(1987、1988、1989)、総理大臣杯優勝3回(1987、1989、1990)、関東大学リーグ優勝1回(1990)に貢献する。
順天堂大学時代は2つ上に石井正忠、1つ上に真田雅則、2つ下には小村徳男、森山泰行などがおりここでも大嶽は高いレベルでサッカーに取り組むことが出来た。
大嶽は大学を卒業後、日本サッカーリーグ1部の全日本サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)へ加入。
初年度はリーグ戦1試合の出場に留まったものの、2年目にはレギュラーに昇格。リーグ戦21試合に出場した。
1992年、全日空は横浜フリューゲルスとしてJリーグに参入。大嶽もJリーガーとなった。
大嶽直人のプロ入り後
1993年、Jリーグが開幕すると大嶽は加茂周監督が掲げだ戦術「ゾーンプレス」の中心人物として岩井厚裕、薩川了洋などと強固なDFラインを形成。
1993年の天皇杯は決勝で鹿島アントラーズを下し天皇杯制覇に貢献した。
1994年には日本代表に選出され、オーストラリア戦にて代表デビューを果たす。1994 FIFAワールドカップ・アジア予選にも参加し、ドーハの悲劇もベンチから見守った。
代表にはその後召集はかからず、オーストラリア戦が最初で最後の代表戦となった。
フリューゲルスではその後も中心メンバーとして活躍するも、1998年には京都パープルサンガへ移籍。
背番号4を背負い、DFリーダーとして後方でチームを支えながらも、京都パープルサンガのJリーグ通算100ゴール目を決めるなど活躍した。
京都には2001年まで在籍し、元日本代表GK松永成立や岩本輝雄、森保一、遠藤保仁や三浦知良らと共にプレーをした。
そして2001年シーズン終了後、日本サッカーリーグから数えて12年のプロ生活に終止符を打った。
大嶽直人の引退後と現在
大嶽は引退後、京都パープルサンガのコーチを2002年から2007年まで務めた。
その後は大学指導者、ギラヴァンツ北九州コーチ、京都サンガヘッドコーチを務め、現在は日本女子サッカーリーグの伊賀フットボールクラブくノ一で監督を務めた。
2022年からは鹿児島ユナイテッドFCの監督に就任している。