豊富な運動量と徹底したマンマークが持ち味の大熊裕司。
利き足の左足から繰り出される長短のパスは精度も高く、主にボランチとして活躍。
柏レイソルや京都パープルサンガで活躍した。
実兄はFC東京やセレッソ大阪で監督を務めた大熊清。
セレッソ大阪の監督を2014年は大熊裕司が、2015年は大熊清が務め、史上初の同一チーム兄弟指揮官の誕生が話題となった。
大熊裕司に迫る。
大熊裕司のプロ入り前
大熊は1969年に埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれた。
小学校からサッカーを始め、さいたま市立東浦和中学校へ進学しサッカー部に所属。
高校は武南高等学校を選択。
大熊の一つ下に石川康(元ヴェルディ川崎、名古屋グランパス)、二つ下に池田太(元浦和)がいた。
高校時代は激戦区の埼玉県大会を勝ち抜けず全国選手権には出場できなかった。
高校を卒業後、大熊は中央大学へ進学。
中央大学の同級生には内藤直樹(元清水エスパルス、サンフレッチェ広島、ヴィッセル神戸)、二つ上には元日本代表の福田正博がいた。
中央大学卒業後、大熊は日本サッカーリーグ1部の日立製作所(現柏レイソル)へ入団。
入団1年目から出場機会を掴み、背番号20を背負った大熊はリーグ戦20試合に出場した。
その後、日立製作所がJリーグ参入の為に柏レイソルと改名してからも大熊はチームに在籍。
そして1995年に柏レイソルはJリーグに参入する。
大熊裕司のプロ入り後
1995年、Jリーグデビューを果たした大熊はリーグ戦24試合に出場。
まだ固定番号制ではなかったが1995年3月18日の清水エスパルス戦では背番号10を背負い出場した。
柏はJリーグ初年度ながら、カレカやミューレル、ネルシーニョ、バウディールいった元ブラジル代表選手が在籍していたものの、Jリーグでは下位に沈み、1995年はリーグ戦14チーム中12位の成績に終わった。
1996年、大熊は京都パープルサンガへ移籍。
Jリーグ1年目となる京都は与那城ジョージ監督の元、元日本代表のラモス瑠偉や山口敏弘、大野俊三や藤吉信次など大型補強をして臨むが、開幕戦から17連敗という状況に陥る。
大熊は主にラモス瑠偉とコンビを組んで、京都のボランチとして主力として活躍するも年間成績は最下位に終わり巻き返すことはできなかった。
京都での2年目のシーズンはチームの精神的支柱であるラモス瑠偉が退団するなど戦力の低下が不安視されたが、1stステージは6勝10敗で折り返すなど健闘を見せた。
大熊自身も第12節の横浜フリューゲルス戦では決勝点となるJリーグ初ゴールを記録した。
2ndステージはヴェルディ川崎から武田修宏を獲得するなど得点力をあげるという課題をもって取り組むも3勝13敗に終わり、年間最下位は免れたものの年間9勝23敗という成績で苦いシーズンとなった。
大熊は翌年アビスパ福岡へ移籍。
加入1年目ながらすぐにレギュラーに定着し、リーグ戦21試合に出場。アビスパは最下位に沈み、翌年からJリーグ2部リーグ化になる為、J1参入決定戦に回る。
1回戦で当時JFL2位の川崎フロンターレを下し、アビスパは2回戦に進出。
2回戦でジェフ市原に敗れたものの、第3参入決定戦でコンサドーレ札幌を下し、来期のJ1リーグ参入を決めた。
大熊はアビスパのJ1残留を見届けてこの年限りでユニフォームを脱いだ。
大熊裕司の引退後と現在
大熊は引退後、1999年から2004年までアビスパ福岡でサテライトやトップチームのコーチを歴任。
2005-2006年はセレッソ大阪でヘッドコーチを務め、2007-2008年は日本代表U18コーチを担当した。
2010年からはセレッソ大阪でコーチ、監督を務め、現在はセレッソ大阪U23監督を務めた。
2021年からは横浜Fマリノスでアカデミーダイレクターを務めている。