ヘディングが強く、ポストプレーやキープ力に優れるFW西澤明訓。
特に浮き玉にピンポイントで合わせられる能力は秀逸で、2000年6月のハッサン2世国王杯のフランス戦では芸術的なボレーシュートを叩き込んだ。
スペインリーグやプレミアリーグでのプレー経験もあり、日本代表としても2002年の日韓ワールドカップに出場を果たすなど代表戦29試合に出場し10得点を記録している。
セレッソ大阪時代の盟友である森島寛晃とのコンビネーションは強烈だった。
ヘディングが強く自在に散らす事の出来る西澤と、相手マークを外し危険なエリアにベストなタイミングで飛び込んでくる森島の息の合ったプレーでゴールを量産。日本代表でもその息の合ったプレーで数々のチャンスを演出した。
身体能力が高くアクロバティックなプレーで記憶に残るゴールを決めるストライカー、西澤明訓に迫る。
西澤明訓のJリーグ入り前
清水市立入江小学校に入学後、3年生で地区の選抜チームである清水FCに入団。当初からセンターフォワードとしてプレーをしていた。チームメイトには山西尊裕がいた。
清水市立第八中学校卒業後、1992年に静岡県立清水東高等学校に入学。
西澤は1年時からレギュラーとして活躍し、清水東は全国高等学校総合体育大会のベスト4に入った。この時の高校総体静岡県大会決勝ではオーバーヘッドで決勝ゴールを決めている。
2年時から国民体育大会少年男子静岡県選抜に選出され、大会の2連覇に大きく貢献した。この頃から襟を立ててプレーするようになりやがて西澤明訓のトレードマークとなる。
高校卒業後、多くのオファーの中からセレッソ大阪へ入団する。
西澤明訓のJリーグ入り後
セレッソ大阪に入団後、オランダ・エールステ・ディヴィジ所属のFCフォレンダムにレンタル移籍。U-19の日本代表に選出されるなど順調なスタートを切った。
1996年セレッソ大阪へ復帰すると、リーグ戦14試合出場3得点、リーグ杯11試合出場5得点を決め決定力のあるストライカーとして活躍。
1997年には国立競技場にて開催された韓国との国際親善試合で日本代表デビューを果たす。フランスワールドカップアジア1次予選で代表初ゴールを含む2ゴールを決めるなど代表でも頭角を現していった。
1999年1stステージ第5節柏レイソル戦では試合開始から7分で当時Jリーグ史上最短記録となる「開始7分でのハットトリック」の快挙を見せた。この年は自身初となる2桁得点を記録。西澤と韓国代表のストライカーである黄善洪(ファン・ソンホン)とのツートップは脅威となった。
2000年には森島寛晃との絶妙なコンビネーションでリーグ戦15得点を決め、自身初となるベストイレブンに森島寛晃と共に選出されている。
そして更なる高みを目指した西澤はスペイン・リーガ・エスパニョーラ1部所属のRCDエスパニョールへ加入。飛躍が期待されリーグ戦6試合に出場したが無得点に終わった。
同年6月にはモロッコで行われたハッサン2世国王杯に日本代表の一員とした出場。フランス戦では鮮やかなボレーシュートを叩き込み、世界のメディアから注目を集めた。
7月にはイングランド・プレミアリーグ1部所属のボルトン・ワンダラーズFCに加入するもリーグ戦の出場はなく、カップ戦のみの出場となった。
ボルトン在籍中にセレッソ大阪のJ2への降格を知り途中で契約解除し帰国。セレッソ大阪へ復帰した。
2002年、日韓ワールドカップのメンバーに選出。背番号9を背負い、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦ではスタメンフル出場を果たすが得点は出来ずチームも敗退した。
セレッソでは、日韓ワールドカップの期間以外はほぼフルシーズン出場。34試合出場8得点という好成績残し、セレッソJ1への昇格に貢献した。
その後もセレッソ大阪で活躍を続け、2005年にはセレッソ大阪は躍進し優勝まであと少しのところで迫るが僅かの差で逃す結果となる。すると翌年には前年の躍進が嘘であるかのように勝ち星に恵まれず遂にはJ2降格。西澤もこの年限りでチームを去ることとなった。
2007年、地元である清水エスパルスへ移籍。
移籍直後に脾臓摘出手術を受ける。加入初年度はリーグ戦22試合に出場し無得点に終わる。背水の陣で臨んだ2008年もリーグ戦21試合で5得点と満足のいく結果は残せずこの年限りで清水エスパルスを退団。
2009年にセレッソ大阪に復帰。
香川真司や乾貴士らの活躍でJ2では圧倒的な強さを見せ、セレッソはJ1に昇格を決める。西澤もリーグ戦18試合に出場と奮闘するも1得点という結果に終わり、体力の限界を理由にこの年限りで現役を引退した。
西澤明訓の引退後と現在
西澤明訓は引退後、2010年2月から古巣であるセレッソ大阪のアンバサダーへ就任している。また株式会社ジャパン・スポーツ・プロモーションに所属し代理人としても活動している。
西澤明訓は現役時代、数多くのアクロバティックなゴールを決めた実に華のある選手だった。
怪我の影響もあり好不調の波が激しいサッカー人生であったが、好調の西澤明訓の横にはいつも森島寛晃がいたように感じる。
ポストプレーに長けている西澤明訓と機動力のある森島寛晃のコンビはチームを超えて代表でも必要とされ、ピーク時はまさに「あうん」の呼吸で手をつけられない程だった。
西澤は森島について盟友でもありライバルでもあり尊敬できる選手であると後に語っている。
現在、森島寛晃はセレッソ大阪の社長を務めている。いつか現場で2人がタッグを組み、往年の名コンビでセレッソを指揮するところを見てみたい。