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森島寛晃の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【283回】

森島寛晃はトラッピング技術が非常に高く、パスの受け手として日本人屈指の能力を持っているセカンドアタッカーだ。球離れが良く、森島が加わると攻撃にリズムが生まれスピードが加速する。

スペースを見つけること、またはスペースを作り出すことに秀でており、相手DFラインの隙を一瞬にして読み取り絶妙な飛び出しで得点機を演出する。

Jリーグではセレッソ大阪一筋でプレーしキャプテンとしてチームを牽引。「ミスターセレッソ」としての呼び声も高く、同じく日本代表でもある西澤明訓との凸凹コンビで得点を量産した。

日本代表としても1998年フランスワールドカップ、2002年日韓ワールドカップに連続出場。日韓ワールドカップのチュニジア戦では後半頭から投入されるとファーストタッチでゴールを決める。ホームである長居スタジアムは喚起の声に包まれた。

森島寛晃のJリーグ入り前


森島寛晃は1972年に広島県広島市南区に生まれた。

小学校2年の時、友達の影響でサッカーを始め、地元・広島の名門である大河FCに加入する。森島は当時から小柄の少年だった。しかし当時のコーチから「背が小さいならそれを活かしたプレーがある。相手のいやがるようなプレーを考えてみなさい」という言葉をかけられる。「背が高かったらよかったのにと思ったことは一度もない」という。

中学校入学後も大河FCでプレーし、卒業後に静岡県の名門である東海大学第一高校(現:東海大学付属翔洋高校)へ進学。森島の1学年上に田坂和昭、1学年下に服部年宏、小島卓がいる。

高校時代は全国高校サッカー選手権への出場は叶わなかったが、インターハイと国体に出場を果たしている。全国的には無名の存在であった森島だったがプロ選手への夢は諦められず、高校卒業後に日本サッカーリーグ2部に在籍するヤンマーサッカー部(現セレッソ大阪)へ入団する。

ヤンマーでは入団2年目からレギュラーを獲得。若干20歳ながらアシストランキング3位に入り年間ベストイレブンに選出されヤンマーの1部昇格に貢献した。

ヤンマー入団5年目の1994年、ヤンマーはJリーグ参入の為にセレッソ大阪へ改称。森島はマルキーニョスとセレッソの攻撃を牽引しリーグ戦で16得点を記録。JFLで優勝を果たし次年度のJリーグ参入を決めた。

森島寛晃のJリーグ入り後

1995年、Jリーグ1年目となった森島はそれまでの鬱憤を晴らすようにJの舞台で躍動する。セレッソの中心人物として得点を量産。2列目からの飛び出しと正確な技術でJリーグ一年目のセレッソを牽引した。この年、森島はリーグ戦50試合に出場し11得点を記録。Jリーグ新人王とベストイレブンに選出された。

そして同年、加茂周監督により日本代表に抜擢。5月21日のスコットランド戦で代表デビューを飾ると質の高い動きで加茂ジャパンのレギュラーに定着。この年だけで代表戦9試合に出場を果たした。

以降もセレッソ大阪と日本代表のキーマンとしてプレー。1998年からはセレッソのキャプテンに就任。森島は開幕戦からの7試合連続ゴールを挙げるなど絶好調で、リーグ戦18ゴールをマーク。同年行われたフランスワールドカップのメンバーにも選出されグループリーグ1試合に出場。

2000年には主将としてセレッソ大阪の快進撃を支えるも、ステージ優勝まであと1勝と迫った試合で敗れ、クラブの初タイトルを逃した。日本代表としてこの年、ハッサン2世国王杯、アジアカップに出場。2001年にはセレッソ大阪はリーグ戦で前年の躍進が嘘であるかのような失速を見せまさかのJ2降格。J1チームへの移籍が噂されたが森島は残留を表明。初のJ2での挑戦となったが見事に1年でのJ1復帰を果たした。

森島は2002年の日韓ワールドカップメンバーに2大会連続で選出。

ワールドカップでは控えメンバーだったが、チュニジア戦で柳沢敦に代わり後半から出場するとペナルティエリア内のこぼれ球にいち早く反応。右足で勢いよく蹴り込まれたボールは左のサイドネットに突き刺さった。ファーストタッチでのゴール、しかもスタジアムが森島の所属するセレッソ大阪のホームである長居スタジアムということもあり場内は大きな歓声に包まれた。

その後もセレッソ大阪の象徴としてプレーを続けるが2006年にセレッソ大阪は2度目のJ2降格を喫する。しかし森島はまたもや残留する。しかし、この頃に原因不明の首の痛みを発症。日常生活にも苦労する状況に陥り、2007年はわずか5試合の出場で0得点と、自身初の年間無得点に終わった。

2008年もリハビリに励むも完治することはなくベンチ入りが出来ない日々が続いた。10月に現役引退を発表。

12月6日、最終戦の愛媛FC戦では香川真司に代わりアディショナルタイムに試合に出場。これが森島の最後の試合となった。

森島寛晃の引退後と現在

森島は引退後、2008年からサッカースクール「モリシアカデミー」を立ち上げる。2009年からは、セレッソの「アンバサダー」として、テレビ・ラジオ番組やイベントなどへ頻繁に出演。

そして2018年12月に株式会社セレッソ大阪の代表取締役社長に就任している。現役時代と変わらない謙虚な姿勢で「日本一腰の低いJクラブの社長」と呼ばれている。2ケ月で名刺を1000枚配ったというエピソードは常に真面目で一生懸命な森島を象徴している。

かつて森島がプレーしたヤンマースタジアム長居は2021年3月に「臨場感と一体感のあるスタジアム」をコンセプトに球技専用スタジアムに生まれ変わる。森島に託された仕事は山積みだ。

愛されるクラブを目指して。誰からも愛された男は今日もスーツ姿で走り回る。

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