フィジカルコンタクトに優れたDF内藤直樹。
ヘディングも強く、空中戦やセットプレーでは強さを発揮した。
Jリーグでは清水エスパルス、サンフレッチェ広島、ヴィッセル神戸に所属。
派手さはないが堅実で安定感のあるディフェンスでチームを支えた。
内藤直樹のJリーグ入り前
東海大学付属小学校に入学後、サッカーを始める。
東海大一中学校に進学しサッカー部で活躍後、東海大一高に進学。
同学年には大嶽直人、佐野友昭、1学年下には澤登正朗、三渡洲アデミールらがいた。
高校1年、2年次は選手権の県予選決勝で敗退していたが、高校3年次に出場した選手権大会ではDFの要として活躍。決勝では優勝候補と呼び声が高かった国見高校と対戦。
前半32分に三渡洲アデミールの強烈なフリーキックで先制すると、後半33分にも主将のDF大嶽直人がコーナーキックから追加点を決め、2-0で勝利。
東海大一は初出場に関わらず、選手権5試合完封勝利という離れ業を成し遂げ、内藤はその中心人物として高い評価を受けた。
高校卒業後、中央大学に進学。
同期には大熊裕司(京都パープルサンガなど)がいる。
中央大学卒業後、柏レイソルの前身である日立製作所本社サッカー部に入団する。
内藤直樹のJリーグ入り後
日立サッカー部に入団した内藤は、1年目からルーキーながらレギュラーを獲得し20試合に出場。
翌年には、Jリーグに参戦する地元の清水エスパルスに入団。1992年のヤマザキナビスコカップでは準決勝の名古屋グランパス戦ではスタメン出場すると、前半9分に先制ゴールを記録。1-0での勝利に貢献した。
決勝でも背番号4を背負いストッパーとしてフル出場するも、三浦カズにゴールを決められ0-1で敗れている。
1993年にJリーグが開幕すると、 第1節横浜フリューゲルス戦でJリーグデビューを飾る。その後もマルコ・アントニオ、堀池巧、平岡宏章と堅守なDFラインを構成した。
1994年のNICOSシリーズ第14節鹿島アントラーズ戦では後半に決勝ゴールを決め3-1での勝利に貢献した。
1995年にはリーグ戦40試合に出場するなど活躍し、翌年はサンフレッチェへレンタル移籍。空中戦の強いストッパーとして活躍し、前半戦全試合出場、Jリーグ通算100試合出場を達成した。
1997年にはヴィッセル神戸へ移籍。
経験豊富なベテランとしてチームを牽引するも、神戸は1stステージ14位、2ndステージは最下位と勝ちきれず、年間総合順位も16位に沈んだ。
1998年もヴィッセル神戸でプレーするも、若手の台頭もありリーグ戦での出場が減少し、この年限りで現役を引退した。
内藤直樹の引退後と現在
内藤は引退後、母校の東海大翔洋高校でコーチを務めた。
2006年からは清水エスパルスでスカウトに転身。MF河井陽介、白崎凌兵、六平光成らの獲得に尽力した。
2020年からはスカウト部部長と強化部部長補佐に就任している。