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田代有三の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第271回】

高い打点からの強力なヘッドと抜群のキープ力が魅力のセンターフォワード田代有三。

大学ナンバーワンFWとして2005年に鹿島アントラーズ入団後、徐々に頭角を現し2008年には念願の日本代表に選出。東アジア大会で代表デビューを飾った。

2010年にはJ1モンテディオ山形で背番号10を背負い初の二桁得点をマーク。当たり負けしない強靭なフィジカルと空中戦の強さでエースの称号を獲得した。

高さだけでなくフロントラインからの献身的な守備も田代有三の魅力のひとつだ。

田代有三のJリーグ入り前


田代は1982年に福岡県福岡市に生まれた。

3人兄弟の末っ子だった田代は兄の影響で小学校1年の時にサッカーを始め石丸FCに所属する。

下山門中学校進学後、サッカー部に入部。ボランチとしてプレーし3年時にはキャプテンとして市大会優勝を経験。福岡市選抜に選出される。田代はこの頃、体格と運動能力の良さをかわれ相撲部の大会にも出場。市大会の団体戦、個人戦ともに優勝を経験した。

中学校卒業後、福岡大学附属大濠高等学校へ進学。高校1年時にボランチからFWへコンバート。3年時には福岡県選抜に選出され国体に出場した。

高校卒業後、福岡大学へ進学。1年時から試合に出場し2年時でレギュラーに定着。九州リーグで優勝を経験。大学選抜には1年時から選出され大学3年時にユニバーシアード日本代表に選出。戸川健太、岩政大樹、中後雅喜、山崎雅人らと共に大邱大会を戦った。

この活躍が認められ、田代は大学3年時に大分トリニータの強化指定選手に選出。Jリーグの試合に1試合出場。4年時にはサガン鳥栖の強化指定選手としてJ2リーグ10試合に出場し1得点を記録。

田代は大学屈指のセンターフォワードとして卒業後に鹿島アントラーズへ入団する。

田代有三のJリーグ入り後

田代は鹿島アントラーズ入団初年度はリーグ戦5試合に出場1得点を記録。

2006年から出場機会を増やし、2007年にはリーグ戦24試合に出場し6得点を記録。鹿島のJリーグ制覇に貢献した。

2008年にはFW巻誠一郎の負傷により、東アジア選手権2008(中国・重慶)の追加メンバーで日本代表に初招集。2月17日の北朝鮮戦で代表デビューを飾った。

しかし鹿島では興梠慎三や大迫勇也、マルキーニョスとの激しいポジション争いもあり出場機会が減少。

更なる成長を求め、2010年にモンテディオ山形へ移籍。背番号10を背負う。空中戦の強さに加え足元の決定力に磨きをかけた田代はリーグ戦10ゴールをマーク。翌年鹿島に復帰する。

2011年はキャリアハイとなるシーズン12ゴールを決めるもののこの年をもって鹿島を退団。

2012年にヴィッセル神戸へ移籍。加入初年度は度重なる怪我やチームの不振もあり6ゴールに留まりヴィッセル神戸はJ2へ降格。しかし2013年は神戸のターゲットマンとして最前線で攻撃の起点となり1年でのJ1復帰に貢献した。

2015年からセレッソ大阪でプレー。フォルランや玉田圭司、カカウらとポジションを争った。2015年はリーグ戦22試合に出場6ゴールと結果を出すも2016年は怪我の影響もあり出場機会が減少。この年をもってセレッソを退団する。

2017年からはオーストラリア2部リーグ相当に位置するナショナルプレミアリーグのウーロンゴン・ウルブスへ移籍。田代にとって初の海外移籍となった。

2018年10月、このシーズンをもって現役を引退する事を表明した。

田代有三の引退後と現在

田代有三は引退後、オーストラリアに在住。現役時代に所属していたウーロンゴン・ウルブスのアシスタントコーチに就任している。

田代有三がウーロンゴン・ウルブスのアシスタントコーチに就任した理由は語学習得の為、そして古巣への恩返しの為と自身のブログで語っている。

尚、田代はウルブスでコーチをするのは2019シーズンのみとも語っており今後については他に挑戦してみたい事があるとも語っている。

どのような挑戦になるのか分からないがコーチとして海外のチームで指導し、新しい文化や語学に触れた事は大きなプラスとなるだろう。今後の田代有三の動向に注目してみたい。

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