ユース時代から一貫してマリノスでプレーを続けたワン・クラブ・マン、永山邦夫。
日産時代からマリノス一筋でプレーした選手は木村和司、水沼貴史、上野良治、そしてこの永山邦夫の4人だけだ。
171センチと上背はないが当たり負けしない身体の強さとハードマークで相手に仕事をさせない安定したDFを見せた。
右サイドを果敢に駆け上がる精力的なオーバーラップも永山の持ち味だ。
永山邦夫のプロ入り前
小学校の時にサッカーに出会い、かながわクラブに入団。
その後、かながわクラブジュニアユースに昇格。同チームには後の日本代表となる菊原志郎がいた。
松本中学卒業後は神奈川県立港北高等学校へ進学。同時に日産ユースに所属する。
ユースでは主力として活躍し、日本クラブユース選手権に出場。三菱養和に勝利し初優勝を果たす。
高校3年時には第26回アジアユース日本代表に選出。澤登正朗、三浦文丈、池田伸康らと共に戦ったがアジア予選で敗退し1989年に行われたワールドユース世界選手権への出場の夢は叶わなかった。
1989年、永山は高校卒業後に日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に入部する。
日産加入後、1年目からリーグ戦10試合に出場するなど層の厚い日産の中でも高い評価を得る。
2年目にはサイドバックとしてリーグ戦20試合に出場。同年にバルセロナオリンピック出場を目指すU23日本代表に選出。右ウイングバックのレギュラーを獲得した。横山謙三監督の元、下川健一、小村徳男、相馬直樹、澤登正朗、永井秀樹らと共にアジア予選を戦い、最終予選まで望みをつなぐも僅かの差で本大会出場を逃している。
その後日産はJリーグ開幕の為に、横浜マリノスへ改称。主力選手だった柱谷哲二、長谷川健太、柱谷幸一らが移籍していく中、永山邦夫は残留しマリノスでJリーガーとなる。
永山邦夫のプロ入り後
Jリーグ開幕当初はベンチ入りを続けながらも出場機会がなかったが、第6節浦和レッズ戦で平川弘に代わりJリーグ初出場を果たした。この年はリーグ戦16試合出場、翌年の1994年はリーグ戦22試合に出場する。
しかし1995年は怪我の為にシーズンを棒に振り無出場となる。この年マリノスは初のJリーグチャンピオンに輝くものの永山はチームに貢献出来ず悔しいシーズンとなった。
1996年に復帰を果たし、1997年1stステージ第16節ジュビロ磐田戦では88分にゴールを決め、4-3の勝利に貢献。これが永山のJリーグ戦での初ゴールとなった。
だが、またも度重なる怪我により1998年も出場試合がなくシーズンを終える。引退や移籍も頭をよぎったが永山はマリノスに残留。復帰後は守備の職人として様々なポジションを任されながらも安定したパフォーマンスを見せた。
2000年に入り永山はベテランの域に達していたが守備的MFとしてチームを支えた。中村俊輔、遠藤彰弘、上野良治、三浦淳宏というそうそうたるメンバーの後ろに位置し守備のバランスを取った。このシーズンはキャリアハイとなるリーグ戦24試合に出場を果たした。
2001年は先発出場は減るがリーグ戦20試合に出場。しかし2002年シーズンはセバスティアン・ラザロニ監督がアクション型のサッカーを目指した為に控えに回った。しかし後任の下條佳明監督になってからは右MFとして出場し、ダイヤモンド型の中盤を機能させた。
2003年はリーグ戦8試合出場に留まる。永山は戦力外通告を受け引退を決意。このシーズンのマリノスの年間優勝を見届け、最後の日産戦士は静かにピッチを去った。
永山邦夫の引退後と現在
永山邦夫は引退後、横浜Fマリノスの下部組織のコーチに就任。横浜Fマリノスプライマリーコーチを経て、現在はマリノスと提携のある日本工学院八王子専門学校の監督を務めている。
永山は現役時代、その献身的なプレースタイルと謙虚な人柄でマリノスのサポーターから愛された選手だ。
1995年、1998年と怪我でシーズンを棒に振ってしまったが黙々とリハビリに励みその後見事に完全復活を遂げた。監督や戦術の方向性から出場機会に波があったシーズンもあるが出場した試合では堅実なプレーで期待に応えられる永山の安定性こそが引退までマリノスに在籍出来た所以ではなかろうか。
最後の日産戦士、永山邦夫は指導者となった今もマリノスへ貢献を続けていく。