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武藤真一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第379回】

足元のテクニックに優れた攻撃的なサイドバックである武藤真一。

豊富な運動量でタイミングよく攻め上がり、得意の左足で絶妙なクロスを上げた。

若手時代はサイドバックでの出場が多かったが、経験を積んだ後はボランチやトップ下としても活躍。

1999年の最終節ガンバ大阪戦では、J1残留をたぐり寄せる芸術的なループシュートを決め、ジェフの危機を救った。

ジェフには12年間在籍し、Jリーグ通算204試合に出場し13ゴールを記録した。

武藤真一のJリーグ入り前


武藤は1973年に宮城県仙台市に生まれた。

小学校の時にサッカーを始め、北六サッカースポーツ少年団でサッカーを学ぶ。

仙台市立五城中学校卒業後、強豪である仙台育英学園高等学校に進学。武藤の1学年下に瀬川誠(横浜フリューゲルス)がいる。

高校在学中にブラジル留学を経験。
選手権には高校1年次と3年次に出場した。3年次に出場した選手権では1回戦で沖縄県代表の与勝高校に4-0で圧勝するも2回戦で神奈川県代表の桐蔭学園に0-2で敗れている。
また3年次にはインターハイにも出場している。

高校卒業後、ジェフ市原に入団する。

武藤真一のJリーグ入り後

1992年にジェフに入団するも、2年間は公式戦での出場はなかった。

1994年9月14日、NICOSシリーズ第10節サンフレッチェ広島戦で初のベンチ入りをすると、第15節鹿島アントラーズ戦で江尻篤彦と交代でJリーグ初出場を果たす。
貴重な左利きのサイドアタッカーとして重宝され、シーズン終盤は先発で起用された。

1995年は出場機会を増やし、シーズン終盤は左サイドバックとしてレギュラーを確保すると第18節清水エスパルス戦ではJリーグ初ゴールを決め、3-1での勝利に貢献した。

1998年頃からはサイドバックだけでなくボランチや攻撃的なMTとしても起用されるようになる。

1999年は1stステージ15位、2ndステージは最終節前で勝ち点1差の15位となり、ジェフは最後まで残留争いを繰りひろげた。
最終節でガンバ大阪と対戦し、後半15分にDFラインの裏に抜け出し、GK岡中勇人の頭上を越す芸術的なループシュートを決め、チームを窮地から救った。

その後もベテランとしてチームを支えるも、2003年に出場機会が減り、大分トリニータへ移籍。
交代出場が多かったが、リーグ戦9試合に出場。大分は最終節まで残留争いをする苦しいシーズンとなったが、最終節でベガルタ仙台相手に1-1で引き分けてJ1残留を決めている。しかしこのシーズンを持って武藤は大分を退団。

2004年に、Jリーグ参入を目指す東北リーグ2部のグルージャ盛岡へ移籍。選手兼任監督として活躍し東北リーグ1部昇格に貢献した。

2007年にはグルージャから分離して誕生したガンジュ岩手に移籍。監督兼任選手として岩手県4部リーグを戦い、天皇杯で岩手県4部所属ながら県代表の座を獲得するなど番狂わせを起こすも、この年限りで退団。現役を引退している。

武藤真一の引退後と現在

武藤は引退後、2008年からは関東サッカーリーグ2部に在籍する東京国際大学サッカー部の監督を務めている。

2004年に、Jリーグチームを岩手県盛岡市に作るためにグルージャ盛岡が正式に誕生し、その初代監督として白羽の矢が立ったのが武藤真一だった。

この時代は、様々な地域でJリーグチームを発足する動きが活発化されており、元Jリーグ選手が地域リーグでプレーするのは珍しくなかった。
だが、地域リーグからJリーグまで昇格するには、成績はもちろんのこと、育成チームを組織化し、J1の基準である15000人収容可能なスタジアムを確保したりと、様々な面で高いハードルがあり、志半ばで解散するチームも多かった。

グルージャは現在、J3に所属しており、J1を目指して戦っている状況だが、スタジアムの問題はいまだ課題としてあがっている。

J2リーグの基準では10000人以上収容可能なスタジアムを確保する必要があるが、グルージャのホームスタジアムであるいわぎんスタジアムは収容人数が5000人に満たない。
地域クラブにとってJリーグに参入すること自体がとても難しいことだが、参入がゴールではなく、参入後の経営維持においても、常に一定水準の利益をあげなければクラブライセンスのはく奪などのペナルティもあるため、常に健全な運営が必要になる。

地域密着を掲げるJリーグ。クラブチームにはサッカーの枠を超え、地域と一体になって活性化していくことが望まれているが、クラブの発展と存続のためにはまだまだ問題は山積みだ。

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