危機察知能力に優れ、相手の攻撃が始まるきっかけを潰す能力に長けていた森保一。
決して目立つ選手ではないが、攻守の切り替わりには必ず顔を出し、中盤の舵取りとして君臨した。
1994年サントリーシリーズでサンフレッチェ広島は悲願の初優勝を果たしたが、森保の活躍無しには成し遂げられなかっただろう。
日本代表としても、1992年の初招集から1996年まで呼ばれ35試合に出場。
森保と言えば守備と思われがちだが、広い視野を持ち、展開力に優れ、積極的な攻撃参加も魅力だった。
アメリカワールドカップ予選では、司令塔のラモス瑠偉の後ろに常に位置し、日本の攻撃をサポートした。
現役引退後、森保一はこれまでの豊富な国際経験を生かし、指導者へ転身。
日本史上初となる2期連続の日本代表指揮官となった。
森保一のプロ入り前
幼少期から転校を繰り返し、小学校入学後に長崎県に定住。小学校低学年の頃はサッカーではなく、兄と共に野球をやっていた。
小学校高学年でサッカーを始め、隣町の土井首サッカークラブまで通い、サッカーを学んだ。小学校時代にはGKも経験しており、全国大会にもGKとして出場を果たしている。
小学校卒業後、長崎市立深堀中学校へ進学するが。当時の深堀中学にはサッカー部は無かった。
その後、森保らの呼びかけにより、保護者の協力でサッカー部を創部したが、指導者はサッカー未経験であり、学校のグラウンドも使えないという過酷な環境だった。
そんな中でも森保は隣の校区の長崎県立土井首中学校のサッカー部の練習に参加するなどしてサッカーを続けた。
森保は中学時代、新聞配達のアルバイトを経験しており、初めてのスパイクは自身のアルバイト代で購入している。
中学卒業後、森保は長崎日本大学高校へ進学。
攻撃的な選手としてレギュラーを獲得するも、当時の長崎県では国見高校が選手権やインターハイの常連であり、3年間出場はなかった。
そんな中でも森保は山梨国体の選抜メンバーに選出されるが、レギュラー獲得までは至らず、大会には出場していない。
この頃の森保は全国的にはまったくの無名であり、森保自身もサッカーは仕事をしながら実業団で続ける道を模索していた。
しかし、高校卒業を間近に控えた頃、内定していたマツダの高卒採用枠が減り、入社が見送られることになった。
森保は路頭に迷うも、当時のマツダサッカー部監督である今西和男氏の働き掛けにより、マツダの子会社で勤務しながらマツダサッカークラブでプレーできるようになった。
森保一のマツダ入り後
晴れてマツダサッカークラブに入部できた森保であったが、入部当時は実力不足であり、トップチームの練習についていくのがやっとだったという。
周囲とのレベルの違いに落ち込んだ森保であったが、全体練習が終わっても屋上で筋トレに励み、寮の階段を1階から5階まで何度も駆け上がるなど、自主練習を欠かさなかった。
その甲斐があり、マツダのサテライトチームであるマツダSC東洋でレギュラーを掴むと、守備的MFとして活躍。
当時のマツダのトップチームであるハンス・オフトに見い出され、トップ昇格を果たすことになる。
マツダ入団3年目でレギュラーを獲得した森保は、チームのJSL3位に大きく貢献。自身も19試合に出場し8ゴールをマークするなど飛躍のシーズンとなった。
翌年はプロ契約を締結し、リーグ戦27試合で13ゴールをマークし、JSL1部昇格に貢献した。
1992年、森保を見出したハンス・オフトはアメリカワールドカップを目指す日本代表監督に就任。
オフトはすぐに森保を招集し、1992年5月31日キリンカップのアルゼンチン戦で代表デビューを飾るも試合はバティストゥータに決められ0-1で敗れている。
森保一のJリーグ入り後
1993年、Jリーグが開幕すると森保はサンフレッチェの中心選手として活躍。
バクスター監督の元、高木琢也、風間八宏、前川和也らとともに躍動し1994年サントリーシリーズでの優勝に大きく貢献した。
また日本代表としてもコンスタントに招集され、替えのきかないボランチとして君臨。アジア最終予選ではドーハの悲劇も経験した。
三浦カズやラモス、中山雅史など華のあるスター選手が多かった当時の代表において、森保は地味な存在ではあったが、森保は自分のスタンスを崩さずに真摯にサッカーに向き合うことで、自分を見失わずにすんだと後に語っている。
代表ではオフト以降、ファルカン、加茂周監督就任時も招集されるも1996年から山口素弘の台頭により招集されなくなった。
1998年、恩師であるオフトが京都パープルサンガの監督に就任したことにより、サンフレッチェからレンタルで京都へ移籍する。
京都では黒崎比差支、松永成立、岩本輝雄、山田隆裕、大嶽直人ら元日本代表組とともに活躍。京都の心臓としてリーグ戦32試合に出場した。
1999年には古巣であるサンフレッチェに復帰し、3シーズンプレー。
2000年にはベガルタ仙台へ移籍し、中盤の底で攻守のバランスを取るボランチとしてシルビーニョとの息の合ったコンビを披露。
キャプテンマークを巻き、2002年には仙台の開幕からの5連勝などを支えた。
2003年、森保は監督交代や怪我の影響で出場機会を減らす。最終節大分トリニータ戦は残留のかかった試合となったが、1点を追う展開となり前半で交代。
これが森保のラストゲームとなり、同年で現役を引退した。
森保一の引退後と現在
森保は引退後、指導者へ転身。
2004年にサンフレッチェ広島の強化部育成コーチに就任する。
その後、アルビレックス新潟のヘッドコーチを経て、2012年から5年半、サンフレッチェ広島で監督を務め、3度の優勝に導いた。
2018年から日本代表監督としてリーダーシップを発揮している。
指導者となった森保を見ていると、本当に実直で真っすぐな人だと感じる。
2022年ワールドカップ日本代表キャプテンの吉田麻也は、森保について「選手のことをここまで考えてくれる監督はいない」と語るなど、選手からの信頼は絶大だった。
現役時代の森保はどんなに苦しい状況でもチームの為に身を投げ出し、仲間の為に最後まで走れる選手だった。
才能が豊かだったわけでもなく、環境に恵まれていたわけでもない。
マツダの高卒5人の獲得枠に入れず、6番目の男として実業団に入った時から、きっと森保への試練は始まっていたのだろうと思う。
ひとつひとつの階段を確実に乗り越えて、今の森保があるのだろう。
先日、2026年の北中米ワールドカップを目指す日本代表監督として、森保一監督の契約延長が発表された。
ワールドカップでドイツ、スペインを撃破したとはいえ、いまだベスト16の壁は破れておらず、続投に関して賛否両論があるのは事実だ。
日本代表はサッカーをやる人間、サッカーを愛するすべての人間が夢を見る憧れの場所である。
その場所のトップにいる人間は、選手たちに慕われ、信頼され、尊敬されていないといけない。
そういう意味でも、現時点の日本代表を率いる人選として、森保監督はベストな選択だと感じる。
2026年、森保監督が私たちに新しい景色を見せてくれるに違いない。