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森保一の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第343回】

危機察知能力に優れ、相手の攻撃が始まるきっかけを潰す能力に長けていた森保一。

決して目立つ選手ではないが、攻守の切り替わりには必ず顔を出し、中盤の舵取りとして君臨した。

1994年サントリーシリーズでサンフレッチェ広島は悲願の初優勝を果たしたが、森保の活躍無しには成し遂げられなかっただろう。

日本代表としても、1992年の初招集から1996年まで呼ばれ35試合に出場。

森保と言えば守備と思われがちだが、広い視野を持ち、展開力に優れ、積極的な攻撃参加も魅力だった。

アメリカワールドカップ予選では、司令塔のラモス瑠偉の後ろに常に位置し、日本の攻撃をサポートした。

現役引退後、森保一はこれまでの豊富な国際経験を生かし、指導者へ転身。

日本史上初となる2期連続の日本代表指揮官となった。

森保一のプロ入り前


森保は1968年に静岡県に生まれた。

幼少期から転校を繰り返し、小学校入学後に長崎県に定住。小学校低学年の頃はサッカーではなく、兄と共に野球をやっていた。

小学校高学年でサッカーを始め、隣町の土井首サッカークラブまで通い、サッカーを学んだ。小学校時代にはGKも経験しており、全国大会にもGKとして出場を果たしている。

小学校卒業後、長崎市立深堀中学校へ進学するが。当時の深堀中学にはサッカー部は無かった。
その後、森保らの呼びかけにより、保護者の協力でサッカー部を創部したが、指導者はサッカー未経験であり、学校のグラウンドも使えないという過酷な環境だった。
そんな中でも森保は隣の校区の長崎県立土井首中学校のサッカー部の練習に参加するなどしてサッカーを続けた。

森保は中学時代、新聞配達のアルバイトを経験しており、初めてのスパイクは自身のアルバイト代で購入している。

中学卒業後、森保は長崎日本大学高校へ進学。

攻撃的な選手としてレギュラーを獲得するも、当時の長崎県では国見高校が選手権やインターハイの常連であり、3年間出場はなかった。

そんな中でも森保は山梨国体の選抜メンバーに選出されるが、レギュラー獲得までは至らず、大会には出場していない。

この頃の森保は全国的にはまったくの無名であり、森保自身もサッカーは仕事をしながら実業団で続ける道を模索していた。

しかし、高校卒業を間近に控えた頃、内定していたマツダの高卒採用枠が減り、入社が見送られることになった。
森保は路頭に迷うも、当時のマツダサッカー部監督である今西和男氏の働き掛けにより、マツダの子会社で勤務しながらマツダサッカークラブでプレーできるようになった。

森保一のマツダ入り後



晴れてマツダサッカークラブに入部できた森保であったが、入部当時は実力不足であり、トップチームの練習についていくのがやっとだったという。

周囲とのレベルの違いに落ち込んだ森保であったが、全体練習が終わっても屋上で筋トレに励み、寮の階段を1階から5階まで何度も駆け上がるなど、自主練習を欠かさなかった。

その甲斐があり、マツダのサテライトチームであるマツダSC東洋でレギュラーを掴むと、守備的MFとして活躍。
当時のマツダのトップチームであるハンス・オフトに見い出され、トップ昇格を果たすことになる。

マツダ入団3年目でレギュラーを獲得した森保は、チームのJSL3位に大きく貢献。自身も19試合に出場し8ゴールをマークするなど飛躍のシーズンとなった。
翌年はプロ契約を締結し、リーグ戦27試合で13ゴールをマークし、JSL1部昇格に貢献した。

1992年、森保を見出したハンス・オフトはアメリカワールドカップを目指す日本代表監督に就任。
オフトはすぐに森保を招集し、1992年5月31日キリンカップのアルゼンチン戦で代表デビューを飾るも試合はバティストゥータに決められ0-1で敗れている。

森保一のJリーグ入り後

1993年、Jリーグが開幕すると森保はサンフレッチェの中心選手として活躍。

バクスター監督の元、高木琢也風間八宏前川和也らとともに躍動し1994年サントリーシリーズでの優勝に大きく貢献した。

また日本代表としてもコンスタントに招集され、替えのきかないボランチとして君臨。アジア最終予選ではドーハの悲劇も経験した。

三浦カズやラモス、中山雅史など華のあるスター選手が多かった当時の代表において、森保は地味な存在ではあったが、森保は自分のスタンスを崩さずに真摯にサッカーに向き合うことで、自分を見失わずにすんだと後に語っている。

代表ではオフト以降、ファルカン、加茂周監督就任時も招集されるも1996年から山口素弘の台頭により招集されなくなった。

1998年、恩師であるオフトが京都パープルサンガの監督に就任したことにより、サンフレッチェからレンタルで京都へ移籍する。

京都では黒崎比差支松永成立岩本輝雄山田隆裕大嶽直人ら元日本代表組とともに活躍。京都の心臓としてリーグ戦32試合に出場した。

1999年には古巣であるサンフレッチェに復帰し、3シーズンプレー。

2000年にはベガルタ仙台へ移籍し、中盤の底で攻守のバランスを取るボランチとしてシルビーニョとの息の合ったコンビを披露。
キャプテンマークを巻き、2002年には仙台の開幕からの5連勝などを支えた。

2003年、森保は監督交代や怪我の影響で出場機会を減らす。最終節大分トリニータ戦は残留のかかった試合となったが、1点を追う展開となり前半で交代。
これが森保のラストゲームとなり、同年で現役を引退した。

森保一の引退後と現在

森保は引退後、指導者へ転身。

2004年にサンフレッチェ広島の強化部育成コーチに就任する。

その後、アルビレックス新潟のヘッドコーチを経て、2012年から5年半、サンフレッチェ広島で監督を務め、3度の優勝に導いた。

2018年から日本代表監督としてリーダーシップを発揮している。

指導者となった森保を見ていると、本当に実直で真っすぐな人だと感じる。

2022年ワールドカップ日本代表キャプテンの吉田麻也は、森保について「選手のことをここまで考えてくれる監督はいない」と語るなど、選手からの信頼は絶大だった。

現役時代の森保はどんなに苦しい状況でもチームの為に身を投げ出し、仲間の為に最後まで走れる選手だった。
才能が豊かだったわけでもなく、環境に恵まれていたわけでもない。
マツダの高卒5人の獲得枠に入れず、6番目の男として実業団に入った時から、きっと森保への試練は始まっていたのだろうと思う。
ひとつひとつの階段を確実に乗り越えて、今の森保があるのだろう。

先日、2026年の北中米ワールドカップを目指す日本代表監督として、森保一監督の契約延長が発表された。
ワールドカップでドイツ、スペインを撃破したとはいえ、いまだベスト16の壁は破れておらず、続投に関して賛否両論があるのは事実だ。

日本代表はサッカーをやる人間、サッカーを愛するすべての人間が夢を見る憧れの場所である。
その場所のトップにいる人間は、選手たちに慕われ、信頼され、尊敬されていないといけない。
そういう意味でも、現時点の日本代表を率いる人選として、森保監督はベストな選択だと感じる。

2026年、森保監督が私たちに新しい景色を見せてくれるに違いない。

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