日本代表歴代2位の通算122試合に出場
日本が初めてワールドカップに出場した1998年にフランスワールドカップの日本代表キャプテン、井原正巳。
その統率力と強靭な体躯によるフィジカルの強さは他を寄せ付けない。
日本にリベロというポジションを定着させたのは他ならぬ井原だろう。
アジアの壁、井原正巳に迫る。
井原正巳のプロ入り前
水口町立貴生川小学校(現甲賀市立貴生川小学校)に入学後、貴生川サッカー少年団でサッカーを始める。
小学校時代から全国大会に出場するなど幼い頃から頭角を現す。
甲賀市立水口中学校に入学し、滋賀県大会では優勝、近畿大会では準優勝を果たす。
高校は滋賀県立守山高等学校を選択。
高校2年時には第63回全国高校サッカーに出場。一回戦で茨城県代表の日立工業高校に敗れるも、井原はFWで出場。
U17日本代表にも選出された。
高校卒業後は筑波大学へ進学して蹴球部に所属。
大学1年時に当時のユース代表監督であった松本育夫の勧めでDFに転向。
大学時代、当時DFだった中山雅史とセンターバックでコンビを組み、大学選手権で優勝を果たす。
筑波大学時代はサッカーに打ちこむ一方、教員免許も取得した。
井原は大学2年時に初めて日本代表に選出され、1988年1月27日、アラブ首長国連邦戦で横山謙三監督率いる日本代表のDFとしてAマッチに初出場。
翌年のワールドカップイタリア大会アジア予選においても井原はレギュラーとして出場。
1990年、井原は大学卒業後、日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に入部した。
日産ではボランチも経験。加入初年度はリーグ戦22試合に出場、2得点を挙げ日本リーグ新人賞を受賞した。
日産では1991年から2年連続で天皇杯を制覇。
その後、日産は横浜マリノスとしてJリーグに参入。
井原も継続してマリノスでのプレーを選択した。
井原正巳のプロ入り後
井原は背番号4をつけ、マリノスの不動のレギュラーとして活躍。
Jリーグ開幕初年度から5年連続でJリーグベストイレブンに選出される。
日本代表にも継続して呼ばれ、1993年にはドーハの悲劇を経験。
1994年広島アジア大会準々決勝の韓国戦では、後半残り僅かのところで井原はミドルシュートで劇的な同点ゴールを決めた。
1995年にはアジア最優秀選手に選出され、フランスワールドカップを目指す日本代表キャプテンとしてチームを牽引した。
1998年フランスワールドカップでは敗れはしたものの、身を呈したカバーリングと冷静な読みで初戦のアルゼンチンを封じ込めた。
1999年、トルシエ監督が日本代表監督に就任した際もキャプテンとしたコパアメリカ99に出場したかこれが最後の代表戦となった。
2000年、井原は前身の日産時代から10シーズンをプレーし「ミスターマリノス」とまでよばれま横浜マリノスを離れ、ジュビロ磐田へ移籍。
翌年の2001年には浦和レッズへ移籍。2シーズンプレーしチームメイトの福田正博とともに引退を表明した。
井原はJリーグ通算297試合出場、5得点。日本代表Aマッチ122試合出場、5得点という圧倒的な記録を残した。
井原正巳の引退後と現在
井原は引退後、公認S級指導者ライセンスを取得する一方、NHKや日刊スポーツを中心にサッカー解説を行いながらサッカーの普及活動に力を注いでいる。
2008年の北京五輪ではU-23日本代表コーチを務め、2009~2014年には柏レイソルのヘッドコーチを務めた。
2015年から3年間、アビスパ福岡の監督を務め、1年目の2015年はチームをJ2からJ1へと導く。
2019シーズンより5年ぶりに柏レイソルのヘッドコーチに就任した。
井原は幼少期から注目され、大学時代から日の丸を背負い、その後も常に日本の中心選手として大きな怪我もなく現役を終えた。
井原ほど功績が輝かしいJリーガーはいないかもしれない。
井原は優れた統率力と正確なフィード、体躯の強さと熱い魂をもつ日本サッカー史に残る名プレーヤーである。