黒子に徹した堅実なプレーが持ち味のMF堀之内聖。
的確なポジショニングと優れたユーティリティ性を持っており、ボランチやセンターバックとして黄金期の浦和レッズを支えた。
ミスの少ない選手で知られ、バックアッパー、クローザーとしても非常に優秀である。
堀之内聖のJリーグ入り前
幼稚園の時にサッカーを始め、小学校入学後に三室サッカー少年団に入団して本格的に始めた。当時のポジションはFWだった。
さいたま市立三室中学校入学後、サッカー部で活躍し強豪のさいたま市立浦和高校へ進んだ。
浦和高校の2学年上に井上敦史(コンサドーレ札幌)がいる。
高校2年次からチームの中心選手として活躍。
ボランチとして攻守の要となり、激戦区である埼玉県予選を勝ちきり、選手権へ出場した。
埼玉県予選を優勝で締めくくった翌日、誰もが優勝ムードでいるなか翌日の授業の予習が出来ていたのは堀之内ただ一人だけだったというエピソードがある。
選手権では1回戦で近畿大付属を2-1、2回戦で水戸商業を3-0、3回戦で西目高校を2-0で下しベスト8に進出。
準々決勝では中村俊輔がいる桐光学園(神奈川)に0-1で敗れベスト4入りは果たせなかった。
堀之内は2年生ながら浦和高校からただ一人大会優秀選手に選出されている。
高校3年次は主将として選手権の埼玉県大会決勝に進んだが、浦和東に1-2で逆転負けしたため2年連続での選手権出場は叶わなかった。
高校卒業後、東京学芸大学へ進学。
2学年下に久保田学(横浜FC)、岩政大樹(鹿島アントラーズ)がいる。
大学時代は1年次からレギュラーを掴み、4年連続で関東大学リーグのベストイレブンに選出。
1年次から関東選抜に選出されると、4年次にはユニバーシアード日本代表に選出され、平川忠亮、坪井慶介、羽生直剛、巻誠一郎、深井正樹らとともに北京大会に出場。
堀之内は背番号6を背負い、ボランチのレギュラーとして日本の優勝に貢献した。
大学卒業後、地元の浦和レッズへ入団。同期に平川忠亮、坪井慶介、三上卓哉、山根伸泉がいる。
堀之内聖のJリーグ入り後
入団1年目の2002年は出場機会がなかったが、2年目の2003年5月17日1stステージ第9節ガンバ大阪戦でJリーグでデビューを飾る。
しかし浦和のボランチには鈴木啓太、内舘秀樹、長谷部誠などがいたため、その後もなかなか出場機会は訪れなかった。
堀之内は当時サテライトのコーチだった柱谷哲二に相談し、怪我人が続出していたDFへコンバートされ、出場機会を掴むようになる。
2005年にはブッフバルト監督のもとでレギュラーとして活躍。
天皇杯の決勝戦でセンターバックを任されると、コーナーキックからヘディングで貴重な先制点を決め、優勝に貢献。
リーグ戦でも田中マルクス闘莉王、坪井慶介と3バックを形成しリーグ戦23試合に出場。
リーグ戦でもセットプレーで強さを見せ、3ゴールをマークした。
2006年はゼロックスのガンバ大阪戦で先制ゴールを決めるなど、序盤から大活躍。
リーグ戦終盤に負傷で離脱してしまうが、28試合に出場し、浦和の初のリーグ優勝に貢献した。
2007年は浦和のACL制覇に貢献。リーグ戦でも19試合に出場するが最終節で横浜FCに敗れ連覇を逃した。
2009年は出場機会が減少したものの、2010年はクローザーとして存在感を示す。
2010年4月18日第7節川崎フロンターレ戦では途中出場から3シーズン振りとなる鮮やかなゴールを決め、復調をアピール。
しかし天皇杯準々決勝のガンバ大阪戦で右ひざを負傷し手術を決行した。
2011年は怪我の影響もあり出場機会がなく、このシーズンをもって浦和を退団。
2012年はJ2横浜FCへ移籍。
怪我を抱えながらも4バックの真ん中としてチームを牽引。リーグ戦22試合に出場した。
2013年はJ2モンテディオ山形へ移籍。
山形ではセンターバックやボランチとして活躍。
リーグ戦30試合に出場し山形のDFラインを支えるも、この年限りで退団し、現役を引退した。
堀之内聖の引退後と現在
堀之内は引退後、浦和レッズのクラブスタッフに転身。
事業部、パートナー営業部を経て現在は強化部に所属している。
また、浦和レッズが運営する「浦和レッズサッカー塾」の塾長としても活躍。
2015年にはフットゴルフの選手として現役復帰し、2016年1月にアルゼンチンで行われたワールドカップに選手として出場した。
現在も現場とサポーター、パートナーをつなぐ架け橋として活躍している堀之内聖。
地元出身の選手として浦和に10シーズン在籍し、現役時代、数々のタイトル獲得に貢献した堀之内にかかる期待は大きい。