俊足を生かしたオーバーラップと正確なクロスを武器に活躍した平川弘。
元々はFWでプレーしていたが、プロ入り後に左ウイングバックにコンバートされ、横浜マリノスの初代左サイドバックとして活躍。
順天堂大学時代に日本代表に選出され、1985のワールドカップ・メキシコ大会予選に出場。
1989年のイタリア大会予選にも召集されるなど活躍し、国際Aマッチ13試合に出場した。
平川弘のJリーグ入り前
藤沢市立六会小学校入学後にサッカーを始める。
藤沢市立六会中学校サッカー部で活躍後、茅ヶ崎高等学校へ進学。
高校時代は選手権への出場は叶わなかった。
高校卒業後、順天堂大学へ進学。
同学年に和田昌裕(ガンバ大阪)、1学年下に堀池巧(清水エスパルス)がいる。
大学1年の時に総理大臣杯で筑波大学を破って優勝を経験。
大学生ながら、快速を生かした攻撃量が評価され森孝慈監督により日本代表に抜擢される。
1985年1月12日、国立競技場で開催されたゼロックス・スーパーサッカーカップ、フランスリーグのボルドー戦で代表デビューを果たした。
同年3月21日、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア地区1次予選の朝鮮代表との試合で木村和司と交代でピッチに入り、国際Aマッチ初出場。
同年のキリンカップ・ウルグアイ代表戦や、ワールドカップメキシコ大会アジア地区最終予選の韓国戦でもいずれも途中出場を果たしており、流れを変えるスーパーサブとして活躍した。
1987年、大学卒業後、日産自動車(現横浜Fマリノス)へプロ契約で入団。
日産入団後は下がり目のポジションを務め、主に左ウイングバックとしてプレーした。
1988年にはしばらく遠ざかっていた日本代表に再選出され、横山謙三監督のもとで左ウイングとしてプレー。
同年6月に行われたドイツ遠征では、アッシュハイム戦で4ゴールを決めるなど活躍。
1989年のワールドカップイタリア大会のアジア地区予選にも召集されたが、出場はなかった。
1991年シーズンは日産でリーグ戦全試合に出場。
1992年にハンス・オフトが外国人として初の日本代表監督に就任し、引き続き代表に選出される。
同年6月のキリンカップ・ウェールズ代表戦で左サイドハーフとして先発出場。7月のオランダ遠征にも参加するが、これが最後の代表参加となった。
1992年、日産はJリーグ入りを前に横浜マリノスへ改称。
平川弘は引き続きマリノスでプレーをする選択をする。
同年、Jリーグ開幕前年に開催された第1回Jリーグカップに全試合出場。
ジェフ市原戦では前半33分にゴールを決め、1-0での勝利に貢献した。
平川弘のJリーグ入り後
1993年、Jリーグが開幕。
開幕試合となった同年5月15日のヴェルディ川崎戦では背番号2を背負い、サイドバックとしてプレーし2-1での勝利に貢献した。
その後も主に左サイドバックとして活躍し、同年はリーグ戦31試合に出場した。
1994年のサントリーシリーズも序盤はスタメンで出場を続けるも、NICOSシリーズからは鈴木正治が台頭したため控えに回ることが増える。
この年はリーグ戦11試合の出場に留まり、シーズン終了後にマリノスを退団。
1995年は横浜フリューゲルスへ移籍。
フリューゲルスでは第4節柏レイソル戦でゴールを決めるなどシーズン序盤はレギュラーとして活躍。
しかしシステム変更もあり、シーズン中盤からは出場機会が減少。この年はリーグ戦13試合で1ゴールに終わり1年でフリューゲルスを退団した。
1996年はJFLのコンサドーレ札幌へ移籍。
4-4-2の左サイドバックとして開幕戦からスタメンで抜擢するも、その後は負傷もありリーグ戦5試合の出場に留まった。
この年限りで現役を引退した。
平川弘の引退後と現在
平川は引退後、サッカー解説者として活動。
また評論家としても評論家として活動しており、各種メディアでコラムを担当。
現役晩年に在籍したコンサドーレ札幌の記事を中心に執筆しており、担当コラムには道新スポーツで「平川弘のCool Eye」、北海道新聞で「平川弘のコンサCHECK」などがある。
息子にJ3いわてグルージャ盛岡でプレーした平川元樹がいる。