長谷部誠の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第522回】
日本代表のキャプテンとして長くチームを支え、ドイツ・ブンデスリーガでも40歳までプレーした長谷部誠。
派手なドリブルや強烈なシュートで観客を沸かせるタイプではない。
しかし、ピッチに長谷部がいるだけでチームが落ち着く。
中盤では的確なポジショニングで相手の攻撃を封じ、ボールを奪えばシンプルかつ正確に味方へつなぐ。
年齢を重ねるにつれてボランチからセンターバックへポジションを変え、最後はリベロのような役割までこなした。
浦和レッズではJリーグ優勝、ヴォルフスブルクではブンデスリーガ優勝、フランクフルトではヨーロッパリーグ優勝を経験。
日本代表では114試合に出場し、2010年、2014年、2018年と3大会連続でワールドカップに出場した。
そして2010年からは長く日本代表のキャプテンを務めた。
2024年5月18日。
長谷部はフランクフルトで現役最後の試合を迎え、40歳で選手生活に幕を下ろした。
選手としてのキャリアを終えた現在は、フランクフルトで指導者として新たな道を歩んでいる。
日本代表のキャプテンとして、そしてドイツで長年プレーした日本人選手として歴史に名前を刻んだ長谷部誠。
その現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る。
長谷部誠のプロ入り前
長谷部誠は1984年1月18日、静岡県藤枝市に生まれた。
サッカー王国・静岡県の中でも、藤枝市は数多くの名選手を輩出してきた土地だ。
長谷部も幼い頃からサッカーに親しみ、地元の少年サッカークラブでプレー。
中学では藤枝市立青島中学校へ進学した。
そして高校は、サッカーの名門・藤枝東高校へ進む。
藤枝東高校は、長谷部より前の世代に中山雅史や名波浩らを輩出した名門校だ。
長谷部も高校時代から中盤の選手としてプレー。
攻撃だけではなく守備にも積極的に関わり、豊富な運動量を生かしてチームに貢献した。
高校時代から目立っていたのは、技術だけではなかった。
試合の状況を読む力。
味方との距離感。
ボールを持っていない時の動き。
こうした部分に長谷部の特徴が表れていた。
高校卒業後、長谷部はJリーグの浦和レッズへ加入する。
2002年。
18歳でプロサッカー選手となった。
長谷部誠のJリーグ入り後
2002年、浦和レッズへ加入。
当時の浦和には、福田正博や井原正巳、山田暢久ら経験豊富な選手が在籍していた。
長谷部はその中で少しずつ出場機会を増やしていく。
プロ1年目からすぐにレギュラーへ定着したわけではない。
しかし、練習や試合を重ねながら着実に成長。
2003年にはJリーグ初ゴールを記録する。
そして2004年。
長谷部は中盤の中心選手として存在感を高めていった。
当時の浦和には、後に日本代表でも活躍する選手たちが揃っていた。
中盤では小野伸二がプレーし、後方には田中マルクス闘莉王、鈴木啓太らがいた。
長谷部は彼らとともに浦和の黄金期を作っていく。
2004年、浦和はJリーグ2ndステージで優勝。
長谷部も主力選手としてチームを支えた。
2005年にはさらに出場機会を増やし、浦和の中心選手へと成長していく。
そして2006年。
浦和レッズがクラブ史上初となるJリーグ優勝を果たす。
長谷部も主力として優勝に貢献。
さらに天皇杯も制覇した。
2007年にはAFCチャンピオンズリーグを制覇。
浦和レッズにとって初めてとなるアジア王者のタイトルを獲得した。
この頃の長谷部は、攻撃的MFとして前線へ飛び出すプレーも多かった。
ドリブルでボールを前へ運び、シュートまで持ち込む。
中盤でボールを奪えば、そのまま攻撃に参加する。
若い頃の長谷部には、現在とは少し違った攻撃的な一面があった。
しかし、この経験が後の長谷部の成長につながっていく。
そして2007年。
長谷部に大きな転機が訪れる。
ドイツ・ブンデスリーガのヴォルフスブルクへ移籍した。
長谷部誠の海外挑戦
2007年12月、長谷部はドイツのヴォルフスブルクへ移籍する。
日本を離れ、ヨーロッパで新たな挑戦を始めた。
当時のヴォルフスブルクには、後に世界的なストライカーとなるエディン・ジェコやグラフィッチらが在籍していた。
長谷部はドイツのサッカーに適応していく。
日本では攻撃的MFとしてプレーすることも多かったが、ドイツではボランチや右サイドバックなど、さまざまなポジションを経験した。
この経験が長谷部の大きな武器となる。
一つのポジションだけではなく、チームの状況に応じて複数のポジションをこなせる選手になっていった。
そして2008-09シーズン。
ヴォルフスブルクがクラブ史上初となるブンデスリーガ優勝を果たす。
長谷部もチームの一員としてリーグ優勝を経験した。
その後、長谷部はヴォルフスブルクでプレーを続ける。
しかし、監督交代などもあり、出場機会が安定しない時期もあった。
2013年、長谷部はニュルンベルクへ移籍。
ここでは主にボランチとしてプレーした。
そして2014年。
長谷部はアイントラハト・フランクフルトへ移籍する。
この移籍が、長谷部の長いドイツ生活を決定づけるものとなった。
長谷部誠の日本代表での活躍
長谷部が日本代表に初めて招集されたのは2006年。
2006年2月のアメリカ戦で代表デビューを果たした。
その後、徐々に代表での存在感を高めていく。
当時の日本代表には、中田英寿、小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁ら、優れたMFが揃っていた。
長谷部はその中で経験を積み、やがて日本代表の中盤を支える存在になっていく。
2010年。
南アフリカワールドカップ。
長谷部は日本代表のキャプテンを務めることになった。
日本代表には本田圭佑、松井大輔、遠藤保仁、中澤佑二、田中マルクス闘莉王らがいた。
長谷部は中盤の底でチームを支えた。
グループリーグではカメルーン、オランダ、デンマークと対戦。
日本は2勝1敗で決勝トーナメントへ進出した。
決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦。
PK戦の末に敗れたものの、日本はベスト16という結果を残した。
長谷部はキャプテンとしてチームをまとめた。
2011年にはアジアカップに出場。
日本は決勝でオーストラリアを破り、優勝を果たした。
長谷部はこの大会でもキャプテンを務め、日本代表をまとめた。
2014年ブラジルワールドカップにも出場。
さらに2018年ロシアワールドカップにも出場した。
これで3大会連続のワールドカップ出場となった。
ロシア大会では日本が決勝トーナメントへ進出。
ベスト16でベルギーに敗れた。
大会終了後、長谷部は日本代表からの引退を表明した。
日本代表通算114試合。
その長いキャリアの中で、キャプテンマークを巻いて戦った試合も多い。
長谷部誠は、日本代表を語るうえで欠かせないキャプテンとなった。
長谷部誠のプレースタイル
長谷部誠のプレースタイルを語るうえで、最も大きな特徴は「判断力」だ。
相手がどこから攻撃してくるのか。
味方がどこにいるのか。
前へ出るべきなのか。
一度ボールを落ち着かせるべきなのか。
常に周囲を確認しながらプレーしていた。
若い頃の長谷部は、ドリブルで前へ運ぶことも多かった。
浦和時代には攻撃的MFとして前線へ飛び出し、ゴールを狙うこともあった。
しかし、ドイツへ渡ってからプレースタイルが変化していく。
よりシンプルにボールを扱うようになった。
無理なドリブルはしない。
危険だと判断すればボールを下げる。
相手のプレスを受ければ、ワンタッチで味方へ預ける。
そして、次のポジションへ移動する。
この判断の速さが非常に優れていた。
また、長谷部は守備でも高い能力を発揮した。
相手に激しくタックルを仕掛けるというより、相手がボールを受ける前にポジションを取る。
パスコースを読む。
相手の動きを予測する。
そしてボールを奪う。
この「予測して守る」能力が、年齢を重ねてから大きな武器になった。
フランクフルトでは、ボランチだけではなくセンターバックとしてもプレー。
さらに3バックの中央では、リベロのような役割を担った。
センターバックの位置からボールを持って前へ出る。
中盤へ正確なパスを送る。
味方の守備位置を確認する。
相手FWの動きを見ながら守備ラインを調整する。
こうしたプレーを40歳近くになっても続けた。
フィジカルやスピードが衰えてもトップレベルでプレーできたのは、経験と判断力があったからだ。
長谷部は相手より先に動く。
相手が走ってから追いかけるのではない。
相手が走り出す前に危険な場所へ移動する。
だからこそ、年齢を重ねても守備で大きな穴を作らなかった。
そして、長谷部を語るうえでもう一つ欠かせないのが、チームをまとめる力だ。
日本代表では長くキャプテンを務めた。
味方に声をかける。
守備ラインを調整する。
若い選手を励ます。
苦しい時間帯でも冷静さを失わない。
自分が目立つのではなく、チーム全体がうまく機能することを優先する。
その姿勢が、長谷部の大きな特徴だった。
日本代表では、長谷部とは違った個性を持つ選手たちが多くいた。
本田圭佑のように強烈な個性を持つ選手。
香川真司のように高い技術で攻撃を作る選手。
長友佑都のように豊富な運動量でサイドを上下する選手。
その中で長谷部が担ったのは、チーム全体を支える役割だった。
そして、年齢とともにその重要性はさらに増していった。
若い頃には攻撃参加も多かった。
しかし、経験を積むにつれて「自分が何をすればチームが勝てるのか」を考えるようになった。
ボールを持っていない時のポジショニング。
味方との距離。
相手との距離。
試合の状況。
残り時間。
スコア。
こうしたものを総合的に判断してプレーする。
そのため、長谷部のプレーは派手ではなくても、試合を見ていると非常に重要なことが分かる。
チームが苦しい時にはボールを受ける。
相手の攻撃が強ければ守備に回る。
リードしていれば無理をしない。
攻撃のチャンスがあれば前へ出る。
その時、その時で必要なプレーを選択する。
これが長谷部誠のプレースタイルだった。
長谷部誠の引退後と現在
2024年5月18日。
長谷部誠はフランクフルトで現役最後の試合に出場した。
40歳。
2002年に浦和レッズでプロ入りしてから22年。
海外でプレーした期間だけでも17年に及ぶ。
現役引退後、長谷部は指導者としてのキャリアをスタートさせた。
長く在籍したフランクフルトで、若い選手たちを指導する立場となった。
選手としてドイツのサッカーを経験し続けてきた長谷部が、今度は指導者として次の世代へ経験を伝えていく。
長谷部の現役生活を振り返ると、そのキャリアは一つのポジションだけでは語れない。
浦和では攻撃的MF。
ドイツではボランチ。
右サイドバック。
そしてセンターバック。
最後にはリベロのような役割までこなした。
普通なら、年齢を重ねるにつれてプレーできる場所は限られていく。
しかし長谷部の場合は逆だった。
経験を積むほど、チームの中でできる仕事が増えていった。
その根底にあったのは、サッカーを理解する力だった。
どこに立てばいいのか。
いつ動けばいいのか。
いつパスを出すのか。
いつリスクを取るのか。
いつ安全なプレーを選ぶのか。
それを判断し続けた。
浦和レッズではJリーグ優勝。
ヴォルフスブルクではブンデスリーガ優勝。
フランクフルトではヨーロッパリーグ優勝。
日本代表ではアジアカップ優勝。
そしてワールドカップには3大会連続で出場した。
さらに日本代表では長くキャプテンを務めた。
長谷部誠という選手の凄さは、派手な数字だけでは表せない。
チームに必要なことを理解し、それを実行する。
自分が目立つことより、チームが勝つことを優先する。
そして、年齢を重ねても自分の役割を変えながらチームに貢献する。
これを20年以上にわたって続けた。
浦和時代には小野伸二らとプレーし、日本代表では遠藤保仁らと中盤を形成した。
そしてドイツでは、日本人選手として非常に長いキャリアを築いた。
長谷部誠のキャリアを振り返ると、「適応力」という言葉も非常によく似合う。
チームが変わっても適応する。
監督が変わっても適応する。
ポジションが変わっても適応する。
年齢を重ねても自分のプレーを変える。
その結果、40歳までブンデスリーガでプレーすることができた。
日本代表では114試合に出場。
2010年、2014年、2018年と3大会連続でワールドカップに出場した。
そして、長くキャプテンとして日本代表を支えた。
中田英寿や小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁ら、時代を代表するMFとともにプレーしながら、最後には自分自身が日本代表を象徴するキャプテンの一人となった。
現役を終えた現在は、今度は指導者としてサッカーに携わっている。
選手としてピッチの上から見ていた景色を、これからはベンチから見る。
長谷部が若い選手たちに何を伝えていくのか。
それも、今後の楽しみの一つだろう。
派手なドリブル。
豪快なシュート。
華麗なテクニック。
長谷部誠には、そうした分かりやすいスター性があったわけではない。
しかし、試合を見続けるほど、その存在の大きさが分かってくる選手だった。
ボールを奪う。
味方につなぐ。
危険な場所を埋める。
味方を動かす。
苦しい時にチームを落ち着かせる。
そして最後まで自分の役割を果たす。
日本代表のキャプテンとして、ドイツの舞台で戦い続けた長谷部誠。
そのキャリアは、日本サッカーが世界へ挑戦していった歴史の一部でもある。
浦和レッズからドイツへ渡り、ブンデスリーガで17年間。
40歳まで現役を続けた。
そして現在は、指導者として新たなキャリアを歩み始めている。
「キャプテン・長谷部誠」。
その名前は、日本サッカーの歴史に長く残っていくだろう。



