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ジーニョの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第499回】

優れた知性、鮮やかなパス、そして正確なシュートを備えた左利きのプレーメーカー、ジーニョ。

1995年、現役ブラジル代表として、セザール・サンパイオ、エバイールと共に横浜フリューゲルスへ加入。

現役セレソンとしての能力は疑いようがなく、芸術的な左足で幾多のゴールを生み、創造性溢れるプレーで多くのサポーターを沸かせた。

ブラジル代表として55試合に出場。1994年アメリカーワールドカップでは全試合に出場し優勝メンバーとなった。

ジーニョのJリーグ入り前


ジーニョは1967年にブラジルのバイシャダ・フルミネンセ市にあるノヴァ・イグアスに生まれた。

8歳の時にリオデジャネイロ州リオデジャネイロをホームタウンとするCRフラメンゴの下部組織に入団。
早くからゲームメーカーとしての才能を発揮して将来を嘱望された。

1986年、18歳の時にフラメンゴのトップチームに昇格。憧れの選手であったジーコ、後に鹿島アントラーズで活躍するレオナルドベベットらとともにプレー。
同年、ルーキーながらレギュラーとして活躍しリオデジャネイロ州選手権優勝に貢献。
1987年にはブラジル全国選手権セリエAでの優勝を果たした。

1989年にはブラジル代表に初選出され、同年3月のエクアドル戦でデビューを飾った。

1992年には強豪SEパウメイラスへ移籍。
エジムンド、リバウド、ロベルト・カルロス、エバイール、セザール・サンパイオらと共にプレー。
1993年、サンパウロ州選手権の決勝ではコリンチャンスを4-0で破った試合で先制ゴールを決めるなど活躍。
同年のブラジル選手権でも主力としてタイトル獲得に貢献。

1994年のアメリカワールドカップには左サイドーハーフとしてレギュラーを獲得し、全試合に出場。
優勝こそ果たしたが、激しいマークを受けた影響でジーニョは絶対的な活躍を見せることは出来ず、パルメイラスで見せていたプレーの再現を期待したブラジル国民からは批判の声が上がった。

1995年、パルメイラスのチームメイトのセザール・サンパイオ、エバイールと共に横浜フリューゲルスへ移籍。
3名の現役ブラジル代表を獲得するためにかかった費用は8億円に上ると報道された。

ジーニョのJリーグ入り後


ジーニョは1995年3月18日第1節浦和レッズ戦で背番号10を背負い、Jリーグデビューを果たす。
そのまま司令塔としてフリューゲルスの攻撃の中心となり、第12節名古屋グランパス戦では初ゴールを決めた。
同年はリーグ戦41試合に出場し13ゴールをマーク。
またこの年、ブラジル代表としてザガロ監督から招集を受け、コパアメリカに出場し準優勝を果たした。

1996年は更に日本サッカーに順応し、エバイール、サンパイオとともに活躍。
開幕から破竹の8連勝を果たし、首位に立つとそのまま前半戦を首位で折り返した。
5月18日第15節鹿島アントラーズ戦では芸術的なフリーキックを決め、勝利に貢献。
前園真聖三浦淳宏山口素弘ら日本人選手とのコンビネーションも冴えわたり、優勝も期待されたが後半戦は勢いが失速し年間順位3位に留まった。
同年のナビスコカップにも14試合に出場し7ゴールをマーク。中盤の選手ながら得点ランキング3位にランクインした。

1997年は固定背番号制となってからのフリューゲルス初代10番を背負うことになった。
エバイールは前年に退団したものの、盟友サンパイオとのコンビで開幕戦から活躍。
しかし翌年に控えたフランスワールドカップへの出場のためにブラジルの国内クラブへの移籍を希望し、1stステージ終了後に退団することになった。

ブラジルに帰国後は古巣のパルメイラスへ復帰。
復帰1年目にコパ・リベルタドーレスを制覇。

2000年にはグレミオに移籍。
コパ・ド・ブラジルのタイトルを獲得した。

その後はクルゼイロEC、ノヴァ・イグアスFCでプレー。
2005年、ノヴァ・イグアスではセリエBのリオデジャネイロ・チャンピオンに輝いた。
その後はアメリカに渡り、USLチャンピオンシップ(リーグ2部相当)に所属するマイアミFCでプレー。
2008年に41歳で現役を引退した。

ジーニョの引退後と現在

ジーニョは引退後、指導者や解説者として活躍。
ノヴァ・イグアスFCでエグゼクティブ・ディレクターを務めた。

現在はリオデジャネイロに在住し、フォックススポーツのコメンテーターとしての仕事を続けている。

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